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田本 研造 <
たもと けんぞう > |
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熊野市(旧熊野市、旧紀和町) > |
天保2年(1831)周辺の田畑や、多くの山林を所有する富裕な農家、田本家の長男として、紀伊国南牟婁郡神川村(現 熊野市神川町)に生まれました。
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22歳の時、医師を目指して長崎へ旅立ち、蘭医者「吉 圭斉」に仕え、安政6年(1859)長崎奉行の通詞「松村喜四郎」に随行して函館に渡りました。その後、凍傷がもとでエソという病気にかかり右足を切断し、この手術に当たったロシア領事館のゼレンスキー医師から写真術を学び写真家としてスタートしました。高度な技術を身につけ、明治初年には大きな「田本研造写真場」を建て開拓使専属写真師として、義足で全道を廻り数々の記録写真を撮りました。また傍ら、函館戦争の日仏軍士官、幕軍兵士、戦艦回天丸、そして数々のアイヌ写真、さらに今に残る、榎本武揚、土方歳三などの写真も田本研造撮影と伝えられ、厖大な作品を後世に残しました。
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大正元年(1912)10月22日、81歳で函館に没するまで足の不自由もあって一度も郷土に帰ることはありませんでした。折に触れ近況報告傍北海道写真を郷里に送り、今も神川にはそのときの写真が方々に残ってるといいます。函館立待岬の住吉墓地に現在も眠っています。
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参考文献 |
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なし |
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その他関連情報 |
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田本研造フォトコンテスト |
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