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熊野市百科大事典:プロペラ船 『プロペラ船事業の発展 』 <
くまのしひゃっかじてん:ぷろぺらせん 『ぷろぺらせんじぎょうのはってん』 > |
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熊野市百科大事典:プロペラ船 『プロペラ船事業の発展 』 <
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熊野市(旧熊野市、旧紀和町) > |
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プロペラ船事業は小西氏の個人企業として発足しました。試運転に成功した一号船を飛鳥号と名付け、一隻だけで新宮-本宮間 36kmの定期航路を始めました。始めの 2-3ヶ月間はプロペラ船を危ないと思う人が多く乗客数は期待に反して少なく、空船で走ることもあったほどでした。しかしこの間事故もなく走ったので、次第に乗客も貨物も増えました。
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船の数も徐々に増え、一年も経たないうちに航路は十津川まで延び、新宮 - 瀞八丁間の新航路も開設されました。新宮 - 瀞八丁間は、瀞八丁の観光用として運航され所用時間は 3時間半でした。結局、この航路が最後まで残り、今も航路の一部がジェット化されて運航されているわけです。
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当時の運賃は新宮から十津川まで 2円50銭、曳舟は 1円50銭でしたからかなり高かったのですが、曳舟を圧倒しました。7-8年の間には、エンジンも当初の 32馬力から、100馬力、150馬力、200馬力、300馬力と大型化し、船体も 40人乗りの大型船となりました。 事業は株式会社となり、熊野川飛行艇株式会社と称し、社長は小西正明、丈之助は船夫長として現場の統括にあたったのです。昭和の初めの 新宮の地図 には、確かに熊野川飛行艇会社が載っています。左図は地図の裏の索引です。
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昭和の初め頃のプロペラ船の運航航路と所要時間、運賃は次の通りです。 新宮-瀞 往復 5円50銭 5時間30分 新宮-本宮 上り 2円50銭 3時間30分 本宮-新宮 下り 1円70銭 2時間40分 新宮-折立 上り 4円 5時間30分 折立-新宮 下り 2円20銭 4時間10分
また、昭和10年(1935)の瀞方面への輸送人員は年間で 12,158人、月間では5月が最も多く 3,006人でした。( 「熊野交通30年誌」 による)
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昭和15年(1940年)バスが十津川と北山川の合流地点である宮井まで通じましたが、それまでがプロペラ船の黄金時代といえるでしょう。会社は後に戦時の要請に従い昭和18年(1943)那智にあった那智登山自動車と合併し、熊野合同交通株式会社となりました。今の熊野交通株式会社です。丈之助は昭和20年(1945年) 57歳で職を退いています。
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参考文献 |
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・熊野市百科大事典 ・「熊野交通30年誌」 ・「熊野権現」 |
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その他関連情報 |
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なし |
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