|
|
当サイトはどなたでもご自由にリンクしていただいて結構です。よろしければ上のバナーをお使いください。 |
|
|
ホーム >>
東紀州百科事典 >>
民俗・文化・歴史 >>
熊野市百科大事典:歴史 『北山一揆 - その 1』 <
くまのしひゃっかだいじてん:れきし 『きたやまいっき-そのいち』 > |
|
熊野市百科大事典:歴史 『北山一揆 - その 1』 <
くまのしひゃっかだいじてん:れきし 『きたやまいっき-そのいち』 > |
<
熊野市(旧熊野市、旧紀和町) > |
|
北山地方とは、熊野川上流の北山川流域地域を言う。今の奈良県吉野郡上北山村、下北山村、和歌山県東牟婁郡北山村、三重県の熊野市と南牟婁郡の北部である。北山とは、熊野からみて、北方の山地を指した言葉で、現地では必ずしも北山と自称していた訳ではなかった。今の吉野郡上北山の地元では吉野郡神河三村(こうのがわさんそん)と言っていた。
|
|
この地域は昔から交通の便の悪い辺境であり、 南北朝時代 には南朝の勢力が敗れるとこの地方に逃げ込んだり、 後南朝 の勢力が後々までここを地盤として細々ながら活動した。その、後南朝の根拠地は川上村の柏木や、そこから伯母峰峠を越えた南側、北山川上流の上北山村河合であった。
其の後も土豪の独立心が強く、豊臣時代となって中央の力がこの地に及んで来ても容易に屈服しなかった。豊臣秀長が検地を行ったときにも強い抵抗があったところである。秀長の「北山の者が検地に従わない時は首を切れ」との命令は有名である。
堀内の時代 にも、奥熊野から北山を中心に大きな一揆があったし、 浅野 に変った後も検地には強い抵抗があった。北山一揆はこの地方を中心に、大阪冬の陣を契機に起こった、中世的土豪の最後の蜂起である。この一揆は、浅野側の資料では、熊野一揆と呼ばれ、北山一揆物語に書かれている程には北山中心の一揆ではなかったものと思われる。
藩側の資料には次の通り述べられている。(現代文に翻訳しました。)
12月12日、北山の紀州領吉野大橋国辺りの在地の者、大阪の豊臣方の催促に応じ、浅野公が大阪にご出陣された隙を伺って一揆を起こし、人数3千ばかりにて、四方より新宮を攻撃した。新宮城代の戸田六左衛門勝直等は、留守居の侍、新宮の社人、町人などを集め、新宮の町廻り所々に柵を設け、熊野川の川舟は城際に引き上げ、堅固に守った。一揆勢は、新宮対岸の牛が鼻まで押し寄せたが、城方より川を渡り、即時に追い払い、首を多数討ち取り、生け捕りも多数であった。この時、榎本太郎右衛門が一番に川を渡って無類の働きをした。また、高田八右衛門が、鉄砲衆30人をつれて代官所より新宮に応援に来た。且つ、山崎大炊が雑兵二百余人にて新宮に加勢に駆けつけた。
|
|
北山一揆物語は、 「日本庶民生活資料集成」 に収録されているが、カタカナ混じりで読みにくい。以下、北山一揆物語を元に、ひらがな文に変え、大幅に地名や説明を補って、読みやすいように書き換えた。上手く現代文に変えられなかったが、段々と書き直して行きたい。
三重県熊野市木本町から国道42号線を名古屋方面向かって走り、大泊から佐田坂を越え、42号線と別れて左に国道309号線に入る。五郷町桃崎で169号線に入るとまもなく県境を越え奈良県下北山村となる。池原ダムを過ぎてしばらくで上北山村の役場のある河合に着く。
北山一揆は、慶長 19年の 10月頃 (1614年11月頃)、北山組三村の内河合村 (今の奈良県吉野郡上北山村河合) に住む山室彦左衛門と云う者が、大阪からの内意を受けて、一族を語らって、一揆を企てた事に始まる。
北山組というのは、この地方の行政組織で、いくつかの村をまとめて「組」として行政支配を行っていたものである。たとえば、後の江戸時代の和歌山藩では、奥熊野地方には、和歌山本藩領として、木本組、北山組、入鹿組、尾鷲組、相賀組、長島組の6組が有り、その内、木本組は20箇村を含んでいた。
ここで言う北山組三村は、和歌山藩の北山組(今の熊野市の山間部、飛鳥町、五郷町、神川町)や、新宮領の新宮北山組ではなく、先に述べた、神河三村つまり大和国吉野郡北山郷上組三村の西野村(今の奈良県吉野郡上北山村西原)、川合村(上北山村河合)、小瀬村(上北山村小橡)である。北山郷上組は上北山組とも言い、後の上北山村である。また、後の下北山村は、北山郷下組又は下北山組といった。
|
|
この年は大阪冬の陣があり、大阪の豊臣方は、各地の土豪に一揆を呼びかけていた。堀内大学という者が大阪から来て村々に触れ状をまわして一揆を勧めた。この堀内は、関ヶ原で西軍について滅びた新宮の堀内の一族とも言われるが定かでない。一揆壊滅後、新宮では堀内大学を捕らえようとしたが捕まらず、神上村(今の熊野市神川町)で大学の母とせがれを捕え二人とも処刑している。
新宮から北山方面への道は 北山街道 といわれる。新宮から、成川の渡しで熊野川を渡り、今の三重県南牟婁郡紀宝町成川から鮒田、高岡、大里を経て、風吹峠(トロトロ坂)を越え、片川、栗須を過ぎ、御浜町の上野 (うわの 昔の尾呂志) から 風伝峠 を越す。
紀和町に入り、丸山、赤木を経、熊野市に入ると育生町長井から大井で北山川を渡り、和歌山県北山村の大沼で北山街道は今の国道169号線と一致する。そのまま 169号線の通りに街道は続く。もう一度北山川を渡って、熊野市に入り五郷町桃崎が北山街道の旧和歌山藩の端となり、北へ向かって大和に至る。
一揆は、ほぼこの北山街道を逆にたどるような形で新宮へ押し出した。
北山街道と言われた街道は必ずしもこれだけではなく、木本 (今の熊野市木本町) から、井戸川をさかのぼり深沢峠を越えて、神上 (こうのうえ) に出、北山川を渡って、七色から、不動峠を越え、浦向 (うらむかい 奈良県) から、池峯、池原をへて北山川に出る街道も、あった。
|
河合村から北山街道を南に向かうと、大峰山系釈迦が嶽から、二里下ったところに、前鬼という所がある。ここは、北山街道に出るためにさらに 10KM下らねばならない山奥の中の山奥である。大峰山に登った事のある人は知っているかも知れないが、大峰山奥駈けのルートは、桜で有名な吉野山に始まり、山上が嶽から大普賢嶽を経て、彌山を越え、最高峰 (標高 1915M) の八経が嶽を越えて釈迦が嶽に向かう。
奥駈けは更に南へ、笠捨山から玉置山を経て熊野三山へと向かうのだが、釈迦が嶽から東へ、北山川方面に下山すると、前鬼に着く。勿論、前期も奥駈けの 75靡と言われる行場の一つになっている。前鬼は、その昔、役の行者 (えんのぎょうじゃ) に従っていた前鬼・後鬼の子孫が住みついたところと言う。昔は、5軒であったが今は 1軒、小仲坊だけが残る。しかし明治 9年 (1876) には戸数 27、田畑 2町 7反の立派な村であった。大峰から下って来たらこの宿坊に泊まって行場巡りをすると面白い。行場巡りには 3時間は見ておきたい。
|
|
|
さて当時、前鬼には、津久と云う者がいて、山室に賛同し一揆に加わった。その外に堀内将監、中村某、小中某が同意した。この五人は一緒に大阪へ行き一揆の計画を練った。この、山室、津久、堀内、中村、小中のことを、世間では五鬼と言った。この 5人の内で大阪から帰ってきて、実際に一揆を企図し、近郷在々を扇動して廻ったのは山室と津久の二人である。
あとの三人は大阪にとどまり、和歌山の城を乗っ取ると称して、在所在所で一揆に加わる百姓を募った。この方面では、山口喜内、広 (今の和歌山県有田郡広川町) の知森、日高郡では財部 (たから 今の和歌山県御坊市) の兵衛等が、一揆を勧めて廻り、和歌山浅野但馬守 (浅野長晟) が、大阪に出陣している留守の間に城を乗っ取ろうと策動した。
浅野は、慶長 5年 (1600)、関ヶ原の戦いの直後、浅野紀伊守幸長が家康の命により、甲斐の府中から和歌山へ転封になり、新宮には一族の浅野忠吉をおいた。慶長 18年 (1613) 幸長が死に、その弟の浅野但馬守長晟が後を継いだ。
慶長 19年 (1614)、北山一揆の年、10月には、大阪方で家康との交渉役を勤めていた片桐且元が失脚、大阪と江戸は手切れとなり、戦争の準備が始まる。 11月17日には家康が、18日には秀忠が大阪に着陣、大阪冬の陣が始まった。浅野長晟は 1万の兵を率いて参陣、新宮の忠吉も共に出陣した。
|
|
さて、浅野忠吉が大阪に出陣中の留守を狙って、熊野新宮の城を窺う一揆勢は、大峰前鬼の津久を大将として、平谷村 (今の三重県南牟婁郡紀和町) 庄屋の 三助 (屋敷持ちの下人一人を抱え13石という) を始め、大和の北山在々の庄屋や村の有力百姓を語らい、竪く示し合せた。このように一揆は大阪に呼応した地元土豪勢力の一揆であるが、それだけではない。
浅野は、 紀州を領してから直ちに検地を行ったが、浅野は検地の経験が豊かであった。つまり百姓にとっては厳しい検地が行われた。この事も一揆の大きな理由であったと思われる。堀内等が豊臣秀長の命を受けて行った天正の検地と浅野の行った慶長の検地を比べると、その厳しさが一目で分かる。例えば次のようである。
天正 慶長 紀州全土 20万5千石 37万4千石 尾川村 173石 308石 (熊野市育生町尾川) 寺谷村 155石 460石 (熊野市五郷町寺谷)
しかし又、検地に対する不満だけでもないことは明らかであって、同じ地域でも尾川村の西は浅野方についたし、隣の長井村の五味は一揆の大将格であった。
津久は一揆に加わった百姓等に向い 「このたびは大阪の大乱により、但馬守は既に泉州迄進出、さらに大阪へ馳せ参じると聞いておる。従って、和歌山は勿論のこと、田辺にも新宮にも、士分の者から町人に至る迄、まともな者は誰も残ってはいない。この機会に皆で志を一つにして攻めかかれば、新宮を陥すのは簡単である。成功の暁には、それぞれの村の山林田畑等は、それぞれに配分する。新宮の領分は、この津久が支配する。どこの村でも、一揆に同意しない者がある場合においては、容赦はしない。」 と宣言した。
皆、風に靡く草木のように、同調し、津久の威勢はますます強くなった。奥々の村でも津久の勢力が近づくと迎えに出る程となり、一揆の勢力は予想以上に強力となった。
|
|
参考文献 |
|
・熊野市百科大事典 ・「日本庶民生活資料集成」 ・「近畿の山」 |
|
その他関連情報 |
|
なし |
|