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熊野市百科大事典:歴史 『戦国時代』 <
くまのしひゃっかだいじてん:れきし 『せんごくじだい』 > |
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熊野市(旧熊野市、旧紀和町) > |
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戦国時代 Age of civil wars(16th Century)
鎌倉から室町時代にかけ、熊野市、南牟婁郡域では、有馬に本拠をおく有馬氏、鵜殿 (今の鵜殿村) に水軍を擁した鵜殿氏、尾呂志 (今の御浜町上野 「うわの」と読みます) の尾呂志氏、小栗須 (今の紀和町) の入鹿氏などが割拠していました。
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入鹿氏 入鹿氏は室町時代の初め頃 (14世紀の中頃でしょうか) 京から移ってきたと言われます。
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尾呂志氏 尾呂志氏は出自は不明ですが長亨(15世紀末頃)には、この地で勢力を張っており、永禄(16世紀の中頃)頃には堀内についています。
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鵜殿氏 鵜殿氏は有馬氏と同じく熊野別当家の出といわれます。14世紀の中頃には既にこの地に勢力を張っていました。興国 2年 (北朝の暦応 4年 1341) には南朝方につき南朝から感状を貰っています。永徳 2年 (南朝の弘和 2年 1382) 頃は北朝につき、攻め寄せた南朝方の北山勢に鵜殿城を包囲攻撃されています。 (南北朝参照)
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有馬氏 熊野別当家の出と言われ 産田神社 神官の榎本氏は 有馬 (今の熊野市有馬町) 一帯に勢力をはり有馬氏を名乗りました。古くは寛治 4年 (1090)「安楽寺文書」に有馬荘司が牟婁郡の内幡大将に任ぜられたとあり、又、保元・平治の乱の頃に、有馬実通、有馬忠方の名が見える事から、有馬氏は平安時代には産田神社の神官としてこの地を領していたものと思われます。永徳 2年 (南朝の弘和 2年 1382) 頃は先に述べた鵜殿氏と同様、北朝方となり北山勢との戦いで兄弟三人と家子若党数輩が討死しています。 室町時代、応永年間(1394-1428)には、有馬和泉守忠永は、阿田和(現御浜町阿田和)から行野(現尾鷲市)までを支配したと言われています。阿田和付近では忠永の一族、榎本出雲守が神木(こうのぎ 今の御浜町神木) に館を持っていました。又、賀田(今の尾鷲市賀田町)では一族の榎本具行が、城を築いています。 「紀伊続風土記」 では、和泉守忠永は1412年没、その子は忠親と言われます。しかしこれはどうやら誤りで、忠親は永正18年(1521)に産田神社を造建したという棟札があることから、忠永と忠親の間に一代あったことは確実です。 享徳3年(1454)には、有馬氏と鵜殿氏が阿田和で合戦したとの記録があります。 「熊野年代記」 です。「有馬ト鵜殿ト合戦ス。鵜殿重道19人討取ル。9月ノコトナリ。阿田和塩田加勢。」
有馬氏の本拠地は有馬本城です。今の熊野市有馬町で、産田神社の近くです。弥生期の津の森遺跡と同じ地域ですから、この一帯は古いのです。今はその遺構と思われる場所の大半が田畑となり、数軒の民家が有ります。このため、城の遺構は定かでありませんが、堀や古城という地名が産田神社の近くに残り、また、熊野では珍しい条里制的な水田地割りも残っているそうです。大きさは、東西67間、南北31間(120m X 55m)と記録されており、付近の地形はほぼそれに合致しています。
さて、忠親には子がなく、甥の河内守忠吉を跡継ぎと決め、大永3年(1523)頃、木本の 鬼が城 のすぐ上の標高150mの山上に 鬼が城本城 を築き隠居しました。
ところが、隠居後に子供が生まれたため、この甥を久生屋( くしや と読みます) (現熊野市久生屋町)で自刃させました。怒った忠吉の親族は、忠親を鬼が城本城に攻め、忠親は敗れて自刃しました。
「紀伊南牟婁郡誌」 の考証によると、有馬氏の系譜は次の通りです。 有馬和泉守忠永(応永年間) - 武蔵守常利(応仁頃) - 和泉守忠親(大永末頃に死) - 河内守忠吉(忠親の甥) - 孫三郎(忠親の実子) - 楠若(堀内氏虎の子、有馬に養子に入る)
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堀内氏
戦国時代の後期には新宮に堀内氏が台頭、天文19年(1550)から、有馬を攻めています。この頃は堀内氏虎の時代です。
この時、有馬方九鬼中務、有馬伊賀守が防戦の為、市木城を今の御浜町上市木に築きました。城跡は、開墾などによる地形の改変の為、定かではありません。 堀内氏は氏虎の頃から勢力を伸ばし、その子の氏善のときには、ほぼ牟婁郡全域を支配しました。
この頃、尾呂志には、尾呂志孫三郎(伝蔵ともいう)とその子孫次郎 (伝兵衛ともいう)がいて、尾呂志城を築いています。
天文の末1550年頃、有馬忠親の子、有馬孫三郎が跡継ぎのないまま死ぬと、氏虎は、有馬氏の内紛にもつけ込んで有馬氏を征服、子を有馬氏に養子として入れます。 この時養子に入った楠若は、氏善とも氏善の弟とも言われています。
阿田和には塩田行義がいて、有馬と新宮の合戦では新宮側につき、天文22年(1553)には、有馬、尾呂志、竹原氏らと合戦し敗れ、鵜殿に逃げましたが、天正2年(1574)には堀内氏に助けられ、阿田和に戻りました。 永禄6-7年(1563-64)には、曽根(現 尾鷲市曽根町)に本拠を持つ佐々木弾正が、新鹿(現 熊野市新鹿町)の岩本城を攻めています。この城は有馬氏の城です。 永禄11年(1568)、北山筋・相賀・赤羽谷(北山筋は北山方面の者、相賀は、現尾鷲市相賀か?赤羽谷は紀伊長島付近?)が組んで有馬を攻めました。有馬は古泊(現熊野市磯崎町)の南の猪の鼻崎に猪の鼻城を築き、九鬼治部少輔、佐竹源左衛門、大谷志摩がたてこもり防ぎました。
堀内氏は、尾呂志氏、鵜殿氏に娘をやり、両氏を族下におきました。尾呂志孫次郎は、堀内の家老として1600石を領しました。
堀内氏善は天文8年(1539年)の生まれ(天文18年生まれとの説もあり)。氏虎の次男です。天正2年(1574)に氏虎が死んだ後、兄の氏高の後を継いで新宮城主となりました。 兄の氏高は氏虎よりも先に死んだとも言われます。 一説では、氏善は有馬氏に養子になっていたので、新宮堀内と有馬の両方を継いだことになり、堀内氏の勢力がますます強勢になったと言います。
ついで、三木城(現尾鷲市)の三鬼氏、長島城(現紀伊長島)の加藤氏(伊勢北畠の臣)を倒し、天正10年(1582)には、荷坂峠(今の北牟婁郡と度会郡の境)までを支配しました。 この頃の合戦の規模を見てみると、天正8年(1580)に堀内が、新宮の北西7KM程の所にある浅里城の浅里左馬之助を攻め落としています。この時の寄せ手は、川原から200人、山から500人、合わせて700人です。
天正13年(1585)の秀吉の紀州攻めに、堀内は秀吉につき本領を安堵されました。堀内の所領は、関ヶ原後、徳川家康に没収されたときは2万7千石となっていますが、これは表高で実質は4万石から最盛期には6万石と言われます。 紀州平定後、秀吉は直ちに検地を命じました。このため、検地に反対する一揆が頻発します。
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天正・慶長の一揆
天正16年(1588)には、一揆勢は、寺谷の多尾城(現熊野市五郷町寺谷)に、 2500人が拠って戦いましたが、秀吉の代官 吉川平助 の助力を得た堀内に敗れました。この時、吉川・堀内勢は3,500人、神山(こうのやま 現熊野市飛鳥町神山)の辛怒涛山(からぬたやま)の城に入り、多尾城を攻めました。この時、神山村、野口村、佐渡村、小坂村、大又村の今の熊野市飛鳥町の村村は堀内方についています。 翌17年(1589年)には藤堂高虎が、吉川氏に代わって、代官として、一揆討伐を行っています。この時、藤堂は今の紀和町赤木に 赤木城 を築きました。この城は、本丸、二の丸、三の丸、馬場など備わった本格的な城で、当時の形が残存しており、石垣の使用された城としても価値が高い遺跡です。 一揆勢はこれに対し、神上(こうのうえ)に城を築き対抗しました。
小栗須(今の紀和町)の入鹿氏は一揆勢に加わり敗れたためにこの時滅亡しています。一揆勢を破った後、藤堂は、農民多数を近くの、田平子峠で処刑しました。峠には、供養塔が立っています。これは、この時の一揆の処刑者と、後に述べる大阪冬の陣を契機にした慶長の一揆の処刑者を供養するものです。 天正18年(1590)には、竹原勢が阿田和を攻め、阿田和の塩田行義はまた敗れています。塩田行義は、戦に弱かったようです。 天正19年(1591)氏善は、秀吉から「熊野惣地」に任命されています。このころが堀内氏の絶頂期です。家中273名、家老は、尾呂志伝蔵1600石です。
秀吉が朝鮮を侵略した文禄の役(1592-1596)では堀内は574人(850人の説もあり)を率いて藤堂高虎の指揮下で参戦しました。尾呂志孫次郎も堀内の傘下で朝鮮に遠征、この時持ち帰った嘉靖銘の繻子惟帳が上野(今の御浜町上野)の長徳寺にあります。尾呂志の他に、五郷(今の熊野市五郷町)の大森源太左衛門、古泊(今の熊野市磯崎町)の大家志摩、大又(今の熊野市飛鳥町)の南新左衛門も出陣しています。
堀内の滅亡
1600年の関ヶ原の戦いでは、堀内は西軍につき伊勢方面に出兵し、九鬼嘉隆と共に西軍側で活動しました。しかし、関ヶ原での敗戦を聞き直ちに新宮に引き返しました。約350人で出兵しましたが新宮に戻ったのは半数以下と言われます。 堀内は、同年10月和歌山の桑山一晴に新宮城を落とされ、滅びました。一晴は初め西軍に属しましたが、一晴の祖父重春は東軍でした。西軍敗戦で重春は、徳川への忠誠を見せるため一晴を新宮攻めに差し向けたのです。新宮攻めには田辺の杉若主殿頭(すぎわか とのものかみ)も加わっています。杉若も初め西軍に属しましたが関ヶ原の敗戦を聞き直ちに降伏、新宮攻めに加わったのです。 当時の新宮城は、後に浅野忠吉が築いた今の丹鶴城の場所ではなく、千穂が峯の東麓、今は全竜寺という寺になっている場所にあった平城で、たいした戦いもなく落城しました。千穂が峯は、新宮市街の北西にある高さ250Mの山です。東南の麓には熊野速玉大社があります。
氏善は新宮から、今の三重県南牟婁郡紀宝町大里にある京城(みやこじょう) に一旦は落ちのびましたがその後、西軍への荷担は積極的ではなく強制されたからであったという理由で、許され、肥後に送られ、加藤清正に預けられました。京城は、天正16年(1588)の北山攻略の際に氏善が築いた城です。氏善は、元和元年(1615)に、肥後熊本城で病死したといわれます。死んだ年には異説があります。また、加藤に預けられたのではなくて 2000石で仕えたという説もあります。 「熊野市史」 によると、氏善は清正の下で宇土城(熊本県宇土市)の城代を務め、慶長14年(1609)8月15日病没、墓は、熊本県宇土市三宝院にあります。 「熊野新宮堀内家とその一族」 も同様に記しています。墓といわれる宝篋印塔が有馬の 安楽寺 にあります。
新宮攻めに加わった田辺の杉若は不運にも、新宮に駐屯中に、紀伊国が浅野に与えられ、田辺城には浅野の家来が入ってしまいました。杉若は宙に浮いてしまい、行く所が無くなり何処かへ逐電してしまったとのことであります。
氏善の子の堀内氏広は大阪夏の陣(元和元年 1615)で大阪城に入りましたが敗れ、後に藤堂高虎に仕えています。大阪夏の陣では鵜殿氏も大阪方につきましたが、鵜殿氏は千姫を助けた功により鵜殿で1500石を領しました。千姫を助けたのは、氏広の弟であったとも言われます。いずれにせよ、堀内の一族につながる者が助けたのは確かで、そのおかげで、堀内の一族は、大阪方についたにもかかわらず助かっています。
一方、尾呂志氏は、堀内滅亡の後、熊野を追放され、一時は九州の田中筑前守に、さらに、慶長11年以後は、伊勢に戻り津の藤堂に仕えました。
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参考文献 |
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・熊野市百科大事典 ・「紀伊続風土記」 ・「熊野年代記」 ・「紀伊南牟婁郡誌」 ・「熊野市史」 ・「熊野新宮堀内家とその一族」 |
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その他関連情報 |
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