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江戸時代、宝永4年(1707年)10月4日に発生した「宝永大地震津波」は、尾鷲浦にも大きな被害をもたらしました。
この「経塚・三界万霊」塔は、その大津波で流死した犠牲者の七回忌・正徳3年(1713年)10月4日に、供養建立したものです。
船津村(現在の海山町)永泉寺の和尚が碑文を書き、明治年間廃寺となった野地村(尾鷲市)良源寺の和尚が建立しました。
この塔の3面には、漢文で「男女老幼溺死者千有余人」など、被災状況や流死のありさまが彫刻されています。
碑文には溺死者千有余人とありますが、宝永7年(1710年)幕府巡見使への報告資料は、530余人となっています。
昭和48年4月11日、尾鷲市有形文化財(建造物)指定。 |
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徳本上人の筆による「南無阿弥陀佛」6字の名号碑。
徳本上人は、江戸時代後期の念仏行者で、宝暦8年(1758年)、現在の和歌山県日高町志賀に生まれ、27才で仏門に入り、のち各地に転住。長年にわたり木食の行を修め、木魚と鉦を激しく叩く独自の徳本念仏をひろめ、各地に念仏講をつくり庶民の苦難を救いました。
晩年、江戸小石川伝通院一世となり、文政元年(1818年)に没しました。生前は行脚の途次、尾鷲の念仏寺に滞在して、当地方に念仏を広められました。
この名号碑は、その時の徳をしのんで文政13年(1830年)3月、念仏寺の老婆講の人達によって建立されたものです。
昭和54年(1979年)5月25日、尾鷲市民俗文化財(信仰)指定。 |
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クスノキは暖帯に自生する常緑樹の香木で、通常大樹になるものですが、尾鷲神社境内の2本は特別に大きく、北川よりのものは目どおり周囲10m、本殿よりのものは9mに達しています。樹齢約1000年以上と推定され、昭和12年(1937年)11月12日、三重県天然記念物に指定されました。
尾鷲神社の本殿は、もともとこのクスノキの西側にありましたが、宝永4年(1707年)大地震津波により流出したため現在地に移りました。
往古「クスノキ」は「オガタマノキ・サカキ」と同じく玉串に使用されたものなので、尾鷲神社の古宮も社前にこのクスノキを植えたものか、あるいは最初から神木として生えていたと推測されます。
紀州藩は寛永13年(1636年)、奥熊野在々の現地調査を行いましたが、その改め帳によると、当時すでに周囲6mであったことが分かります。 |
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