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紀北の旅 紀行文2006
尾鷲の思い出
落合 克吉

尾鷲 三歳になる私の甥っ子は片言をあやつりつつ、童謡を歌うことをおぼえた。
 甥っ子のお気に入りの歌はいつも決まっている。「海は広いな」「カモメの水兵さん」といった海が出てくる歌ばかりなのだ。なぜだろうと私はいつも不思議に思う。
彼は海のそばに住んでいないし、実際の海を目にしたこともほんの数回だけだ。
 散歩に連れて行くと、池でもプールでも、甥っ子は水の溜まっている場所を指差し、大声で「海だ」という。これではたまらないと両親は思い、あるとき、とうとう本物の海を見せに彼を連れて行った。甥っ子と同年齢の子どもがいることもあって、彼の遠い親戚が暮らす尾鷲の小さな漁師町に一泊二日で。
 漁港に着いて、防波堤越しに見ると、漁船はすっかり出払っている。漁網の繕いをしている人だけがいた。甥っ子は車に揺られているうちに眠ってしまった。彼には明日の朝一番に海を見せることにする。
 海から陸を見ると、民家は吹きつける潮風から建物を守るために、寄り添うようにして軒を連ねていた。人のすれ違うのがやっとの幅しかない狭い路地を歩いて、親戚の家へ向かう。低い軒先に漁網が干され、洗濯物がひるがえっている。漁師町独特の生活の匂いがした。
 次の日、朝食を食べてから、甥っ子を連れて漁港へ散歩に行った。甥っ子の目の前には海があり、彼はいつものように指を差して、大声で「海だ」といった。両親はこれが本当の海だよと何度も言い聞かせていた。
 海の水は澄んでいて、すぐ足元の水の中で、小さな魚が何匹も泳いでいるのが見える。甥っ子は親戚の子どもに借りた網で小魚を救おうとするのだが、魚は動きが素早く、彼に捕まるような魚は一匹もいなかった。
 甥っ子は尾鷲から帰ってきてからというもの、池やプールを見ても、海だとはもういわなくなった。代わりに「いつ尾鷲行くか」としつこくたずねるようになったのだった。

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