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紀北の旅 紀行文2005
九鬼をたずねて
嶺田 久三

九鬼 昔、私のじいさんから聴いた、九鬼水軍の話を思いだした。海賊のようでもあり、勇敢な水軍のようでもあり、しかも、織田信長と
いう戦国時代の武将に愛されたのか、利用されたのか、なぞの海の男の生まれた処。それが、紀北にある「九鬼」だと聞かされてきた。
 ひまにまかせて、紀勢本線で、九鬼駅まで来た。どうせ当てのない旅、私は九木神社の方に歩いた。熊野の美しい港町は、人の心を引きずり込む。光る波間にカモメが飛び交う。紺碧の海とはこの海のことだと思った。
 「この空間を切り抜いて、絵にしてみては……」と、もう一人の私がささやいた。
 古い漁師の家の軒先を通って、浜辺へと歩く。魚が干してあるせいか、生臭さが鼻をつく。それが歩くにつれて強くなる。やはり、漁師の村だと、かいだ鼻が教えてくれた。
 白い砂浜の上には、漁舟が引き上げられ、腹を出して眠っているように見えた。気がついてみたら、今夜の宿が決めてない。
 近くで宿を探したが、それらしい宿が見当たらない。角の古い小さなタバコ屋に寄り、尋ねてみた。出て来た年寄りは、私を旅の者と知ってか、店の入口までサンダルをつっかけて現れた。「この近くに安い宿はありませんか」、と尋ねると、「今は安い宿はないが……。でも、漁師のやっとる宿がいい。そんな処で泊るか」。その口もとの仕種は、ぶっきらぼうだったが、人のよさが感じられた。九鬼の人情は、立派に生きていた。
 漁師の民宿は、お世辞にも綺麗とはいえないが、人の情けさが感じられるオカミサンが海辺の部屋に入れてくれた。「虫かごのような窓」から海を眺める。金色に変わる夕焼けの海。単調なリズムの波。 金色が刻一刻と変っていく様は、この世のものとは思えない。海の音はただひたすらに子もり唄に変わった。やがて海は暗闇の中に消えていった。

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