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紀北の旅 紀行文2004
母の杖
枡田 由佳

小春日和が続くある秋の日、私は「熊野古道、馬越峠を歩こう」というツアーに参加しました。実は私は、今まで山道を歩いた経験がありません。それでも行きたいと思ったのは、テレビや雑誌で見た馬越峠の石畳が、とても綺麗だったからです。家を出ようとすると、今年八十歳になる私の母が「山で転んで怪我したらあかん。これを持ってけ」と自分の杖を渡してくれました。私は「格好悪いし、今日無かったら困るやろ」と断わりましたが、母はどうしてもと、私に杖を持たせてくれたのです。松阪からバスに乗せてもらい〈道の駅海山〉で降りると、私は峠の道を登り始めました。実際に歩くと急な坂が多く、大変険しい道でした。でも母の杖のお陰で、膝を痛めずに歩くことができました。「お母さんご免な。杖ありがとう」私は心の中で、母に謝りました。馬越峠では、道の所々にベンチが置いてくれてありました。また、立派な見晴台もありました。歩き始めてから約三時間、ようやくゴールの尾鷲駅に辿り着きました。帰り道のバスの中、私は「最後まで自分の足で歩き通した」と喜びましたが、ふと冷静に考えてみると、馬越峠には空き缶などのゴミが一つも落ちていなかったことと、石畳には草木が一本も生えていなかったことに気が付きました。そこで私がそのことを、隣の席の方に話すと「みんなが大事にしてるから、世界遺産になれたんだね」と頷いてくれました。すると何度か熊野古道を歩いた経験があるという方が「雨降りでも馬越峠は、石と石の間を水が流れていくので歩きやすいよ」と教えてくれました。石畳が造られてから、もう三百年ほど経っているそうです。昔から現代に至るまで馬越峠は、大勢の人々の知恵と心遣いを杖として、支えられて来たのでしょう。その思いは、母が私を心配してくれる気持ちと同じなのかもしれません。私は「今日は、良い一日だった」と思いながら、めはり寿司を母のお土産に、家へ帰りました。

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