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ホーム >> 東紀州百科事典 >> 民俗・文化・歴史 >> 緑橋  < みどりばし >
東紀州百科事典

ジャンル: 民俗・文化・歴史 | 自然・風土・環境 | 方言・郷土料理・物産 | 行政・統計・経済

民俗・文化・歴史 緑橋  < みどりばし > < 御浜町 >
国道42号線御浜町下市木の市木川を渡る新緑橋のすぐ上流側に石積みのアーチ橋がある。

一般的な桁橋ではなく、また本体基本部分は石積みで、アーチ部分上面がレンガ積みとなる珍しい造りの重厚な5連アーチ橋、『緑橋』である。

江戸時代から昭和初期まで架けられてきた石橋も、今では国内でも年を追ってその数を減らしていますが、この橋は町指定の文化財にも指定されています。

いまでは、その役目を新緑橋に譲り、ひっそりとたたずんでいますが、この橋の歴史について触れてみたいと思います。
(右の写真は緑橋を上流側から撮影したもの)
緑橋
 「道中膝栗毛」で有名な江戸時代後期の戯作者十返舎一九(一七六五〜一八三一)の草双子、『金草鞋(かねのわらじ)』の中に市木川の川口を渡ったときのことが次のように書かれている。

 「尾鷲から八鬼山を越し、二木島、波田須、大泊、木本とくると、木本は長い町ですと書いてある。 井戸川があって、潮の引いたときに渡ると記されてあり、これかち那智までは山坂なく道はよいとある。 その次に市木川を渡るわけであるが、松原を過ぎ、志原川、市木村、川あり、これより荒海の辺を行く、引き潮を見ては馳せかけ通る、 されども日和よく静かなる時は、かえってよき景色の所なり。こゝを過ぎて阿田和宿、川あり……
この頃の市木川には橋がなく、旅人達は潮の引いたときに、浜辺を馳けて渡ったわけである。 それから渡船で渡った時代もあったようであるが、明治三十年代の初め頃、木の橋が架けられたという、この橋は木本の橋とともに、 熊野街道では最も長い橋であったということであるが、架けられた最初の年代は明らかではない。 また、魯子『村年譜』には明治の初め頃に架けられたということであるが定かではない。

 どのあたりに橋が架けられていたかというと、ちょうど今の国道四二号線の「新緑橋」のあたりに橋が架けられていたようであるから、相当な長さであった。橋の架けられてある所より少し川上の方に(旧国道四二号線)松の生えた約一反歩(一〇アール)ほどの松芝という島があった。

 波の高いときは、砂礫で川口がふさがれて、川の水がせき止められ、今の市木保育所の前はもちろん、下地の方から稲荷神社の方、奥は八幡神杜(上市木)の方まで水につかってしまい、大きな湖水のようになり、その有様は壮観であったという。そして、その湖水になった水の底には水田があって、この冠水のために米がとれなくなってしまったという。

 橋は架けられ、通行には便利になったが、上用や台風の大波の頃にはこの橋がまたよく落ちた(流された)ということである。

 このようにして、土用波の頃には毎年水田が冠水するので米のとれない年が多かったが、為す術も無くどうにもできなかったという。それも相当な大水であったらしく、ある時などは木の橋が1キロほど上流の市木稲荷神社の下の方まで流されたということであるから、現今からは想像もできないことであり、当時は全く土用波や台風との戦いであったと思われる。
 その頃(明治三十八年)下市木小学校の改築問題で村民が紛争したとあるので、内憂外患で大変であったと思われるが、「ああまた橋が落ちた!」と嘆く人々に、当時の助役畑林五郎松は「橋が落ちてもよい。橋が流失することによって防潮堤工事の促進ができる。」と答えたそうである。

 橋が落ちると同時に水田が冠水してしまうので、この橋を防潮堤として永久的な橋を架けようという意見の人もいれば、 また、防潮堤を築いても大波のためにすぐに流されてしまうだろうと言った悲観的な意見や、冠水しない水田の持主など負担を恐れて等の理由で、反対の意見の人もあった。

 当時の市木村は山本万吉(後の山本松盛)が村長(明治三十四年〜明治四十二年)で大橋四郎松や西倉音松が区長であった。山本村長は村民の意見を統一すべく、桧作荘八郎、堀畑周蔵、大和田賢造、大久保新兵衛等を委員にして反対論者の説得に当たらせたということである。

 そして一方では県に実状の視察を求め、同時に地質調査等も要請した。この結果、明治四十二年の秋には県内政部長が土木技師をはじめ、多数の随員を従え、十数台の人力車を連ねて片地の堤防から被災地域を視察して、帰りがけに大久保万太郎の織物工場を見学して帰ったこともあるという。

 明治四十二年の十二月十八日に山本光夫が村長となった(明治二十八年に収入役となった山本定松と同一人物である)が、彼もまた緑橋の工事の実現のために骨を折った人である。その努力が稔って、明治四十四年の十一月に県会で緑橋の件が上提される運びとなった。その議案に対して賛成演説をしてくれる県会議員がなければ困るということで、南牟婁郡選出の某県議に懇請したが、その県議は地元の問題で奔走中であったので、それを引受けてくれなかった。

 窮地に立たされた山本光夫村長は、北牟婁郡長島町の石倉亀三郎県議に事情を訴え、尽力を依頼した。石倉県議は当時義侠心に富む県議として有名であったが、山本光夫村長の懇請を快諾してくれた。ちなみに、当時は汽車も自動車も通ってなかったので、長島へ行くのは汽船であったという。

 しかし、同議員は賛成演説をするのには一度現地を見ておきたいということになり、村長らは現地視察の日取りを決めて帰ってきた。

 当時小学校は里から大久保地に移り、西憲夫が校長で大久保鶴太郎等が教鞭を執っていた。このことをきいた大久保鶴太郎は、その視察の日に小学校(下市木尋常高等小学校)の全学童で石倉県議を出迎えようという発案をし、最初校長は反対していたが、大久保の熱意にほだされて出迎えることにしたという。

 こうやって学童達にまで出迎えをうけた石倉県議は人力車で現地を視察して、県会で賛成演説をし、市木村民の窮状を訴え、その熱意のあまり、演説の草稿を演台にたたきつけたために原稿はちぎれて飛散したと伝えられている。

 賛否を採ると南牟婁郡選出の某県議と他の数人の反対者があったが、残りの全員は賛意を表したということである。

 「三重県議会史」を繰ってみると、第三四回通常県会(明治四十四年)は十一月二十七日に召集開会されている。その記事の中に、「本年は議事平凡なるの故を以て多くの建議案提出を見たり。」と書かれてあり、五通の意見書が出されているが、その五番目として次のように記されている。(以下引用)


「五は熊野街道速成改修に関する件にして、さきに二十箇年の継続案立て工事中の熊野街道は此の建議によりて其年度を短縮し遂に大正六年を以て全部工事を竣工するに到れり、決議文左の如し

熊野街道速成に関する建議
 自明治四十年度至同五十九年度土木継続年期支出に係る熊野街道改修は、 其の設計二十年間の継続事業に属すと難も斯くの如きの長期の経営は徒らに交通機関の完備を遅滞せしめ日新の時勢に適応せざるのみならず、工費の幾分は雑費に消尽せられ県経済の為得策にあらざるを認む、依て本会は閣下が適当の方法を講じ当初改修の目的を速成せられんことを希望す。」

 この熊野街道の建議案の中に、おそらく緑橋の一件も含まれていたのかもしれない。


 こうして明治四十五年五月半ば過ぎには、三重県土木技師伊藤四方平が本測量のために来村し、大橋松太郎、中尾寅之助、桧作市平が測量を手伝ったということである。


 しかし県の土木課では本設計も終わったのに、予算案が上提されなかった。


 地元の人達は焦燥し、相談の結果、当時の南牟婁郡選出の県会議員尾呂志村片川の森本丑太郎に尽力を依頼した。 結果、森本県議は献身的な協力をしてくれ、私財を使って、緑橋工事の促進に協力してくれたのである。


 大正三年十一月の第三七回の通常県会において、大正三年度追加予算の中に、


「自 大正四年度 土木費継続支出方法
 至 同 七年度

 一、拾壱万弐千六百拾七円
      五二、七六五円七0二  信楽街道改修費
      五九、八五0円七二五  熊野街道緑橋架設費
  内 三三、0六八円000  大正四年度支出
    三三、一二二円000  大正五年度支出
    三三、三二四円000  大正六年度支出
    二二、一九三円000  大正七年度支出

右緑橋架設は多年の懸案にして遂に本会に於て可決漸く其実施を見る事となりぬ。」


と記録されているので、大正四年から大正七年にわたっての継続事業で予算化されたわけである。このことを知った山本松盛、山本光夫の両人は喜びのあまり涙を流したということである。(この工事の概要等は「南牟婁郡誌』に詳しい。以下に引用する)

「本村治水工事の著名なるものを挙ぐれば、緑橋工事を以て其の最たるものとす、抑も緑橋は本村の東方熊野街道の要衝にして、 該橋の工事成らざる以前に於ては、本村区内幾十町歩の田地は海潮襲来の為め、米穀の被害累年莫にして地方農業家の損失幾何たりや知るべからざりき。

 村の先覚夙に之れが被害を防遇せんとし、村民に謀り地方官庁に訴へ、該事業の起工を促すこと宿年の間題たりしなり。

 然るに大正五年時の本郡選出県会議員たる尾呂志大字片川の人森本丑太郎は、本村民有志の熱望に同情し私財を投じて東奔西走当局に折衝、 之れが改修の必要を説き、遂に其の効を奏し同年通常県会に於て工費の大部分を地方費を以て支出すべしとの議案可決するに至れり。今工事の概要を述べん。






延長道程 工事延長二百六十間(四七0・五メートル)内緑橋長さ百尺(三〇・三メートル) 緑小橋長さ三十尺(九・0九メートル)実用幅十二尺(三・六三六メートル) 接続道路長さ二百三十七間二尺(四三一・四七二メートル)路幅十八尺(五・四五四メートル)中央道路長さ百四十四間四尺(二六三・00四メートル)
工事費総工事費予算五万九千八百五拾円七拾弐銭五厘、内弐万円市木村寄附。 請負金額工事費参万九千八百七拾六円六拾銭九厘
従事延人員 従業延人員約二万八千余人
四 作業日数 工事日数は大正六年六月二十五日着手大正七年十二月三十日竣工まで五百五十四目、 内作業日数は四百四十一日間にして、他は暴風出水の為作業中止した日数なり。」



(『南牟婁郡誌」下巻三二八ページ。文中「三重県議会史」の記述と符合しない部分もあるが原文どおり掲載した。)
緑橋 このようにして市木村民念願の緑橋は完成をみたわけである。 大正六年五月に山本松盛が三たび村長に就任しているので、緑橋が完成したときの村長は山本松盛であった。松盛も緑橋工事のために明治四十年頃より奔走した人であった。 市木村当時の白治功労者として名を留めているのも故なしとしない。


左の写真は、緑橋を河口側から見たもの
緑橋
大正6年 6月25日着工(1917年)
大正7年12月30日竣工(1918年)



アーチ下流側の水門扉全体や、欄干が一部改修されてはいますが、全体としては、ほぼ原形をとどめていて、重厚で美しい石積みアーチ橋のシルエットを保っています。
左の写真中、一番左のアーチの向こうに見えるのは新緑橋の橋桁

以上写真及び注釈部分を除き、
御浜町誌(昭和57年 御浜町発行 御浜町誌編纂委員会編集) 第五編第三章八「市木川口緑橋物語」より

データ
参考文献
  御浜町誌(昭和57年 御浜町発行 御浜町誌編纂委員会編集) 第五編第三章八「市木川口緑橋物語」より
その他関連情報
  なし

関連リンク
石のアーチ橋はなぜ落ちない


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