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ホーム >> 東紀州百科事典 >> 民俗・文化・歴史 >> 熊野市百科大事典:イルカボーイズ 『終戦の頃 』  < くまのしひゃっかじてん:いるかぼういず 『しゅうせんのころ』 >
東紀州百科事典

ジャンル: 民俗・文化・歴史 | 自然・風土・環境 | 方言・郷土料理・物産 | 行政・統計・経済

民俗・文化・歴史 熊野市百科大事典:イルカボーイズ 『終戦の頃 』  < くまのしひゃっかじてん:いるかぼういず 『しゅうせんのころ』 > < 熊野市(旧熊野市、旧紀和町) >
捕虜たち
私の家には大きな用水タンクがあり、庭には柿木8本蜜柑の木が2本それにかなり大木の栗の木が1本ありました。石原産業紀州鉱業所で強制労働を強いられて疲れ果てた捕虜が水を求めてこの用水タンクに群がりました。丁度収容所と職場の中間に位置していたので、休憩のつもりか、看守の目を盗んでなのかはよくわかりませんでしたが、この光景をよく見かけました。また、柿が実る頃には背の高い彼らは苦もなく熟した柿をもいで食べていました。それを家人は咎めもせず、それどころか、奥庭にまで案内する事もあったようです。幼い頃で世情のことはよくわかりませんでしたが、敵愾心を持つようなことはなかったようでした。村人はたいてい捕虜に親切だったようです。
終戦の時、彼らは正装して村の中心道路を整然と、しかも堂々と行進しました。ピカピカに磨かれた軍靴は今でも鮮烈な印象として残っています。その途中、我が家の前で整列し色々と礼を述べチョコレートやチュウインガムをたくさん頂きました。私がガムを食べた、これが最初でした。村では何の混乱もなかったようです。あの時期としては一種別世界であったようです。小学校に入学する前の話です。

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収容所跡
中学は入鹿中学校で2年生まで捕虜収容所跡(いるかぼーいずの関連)が校舎でした。新制中学校が発足して間もなくでしたから校舎がありませんでした。そこで利用されたのが捕虜収容所の跡だったというわけです。 ここで新校舎が出来るまでの1年と何ヶ月かを過ごしました。木造2階建てでカタカナのヨの字の配列で、教室は結構広くて1クラス25から30名くらいで楽に机を並べられていたと思います。所々土壁が落ちて隣のクラスが覗けたりしたもので、時々は全員で家から古新聞を持参して、壁の補修をしたものです。
道路を挟んで向かい側に運動場があり、ここで大相撲の地方巡業が開催されたことがありました。 双葉山がひきいる時津風部屋で当時大関の鏡里、関脇の大内山関の一行と立浪部屋の羽黒山、照国、名寄岩関一行などです。私の家は旅館をしてましたから、お相撲さんも泊まりましたが、なかでも当時ひげの立て行司で有名の伊之助が横綱格の待遇で一番良い部屋に陣取られました。 体の大きな若いお相撲さんの礼儀正しく、物静かなのが印象的でした。

昭和30年卒業の同級が3年に一度集まって同窓会を続けております。今年はその年で私が幹事になっています。今でも40名位が集まる貧しかった頃の仲間です。学校は古くても図書室には蔵書が多くて、私の趣味の一つである読書はこのような環境が影響しています。友達に勧められて当時としてはかなりハードでしたが、吉川英治の「三国志」全14巻を読破できたことです。この時の苦労のおかげ以後長編小説を読むのにさほど苦になりません。
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外人墓地のイルカボーイズ名簿
masayoshi さんから頂きました
紀和町史 下巻 869頁
第三節 拡大する戦火と終局
第三十六 戦争と住民

英軍捕虜鉱山へ
昭和十九年六月十八日から、労働力不足を補い生産増大をはかるため、軍当局から捕虜英兵三〇〇名が紀州鉱山に配置された。彼等は太平洋戦争の初頭、マレー地区でわが軍と戦い、シンガボールの戦で捕虜となったもので英兵たちはシンガポールの港で働き、その後秦緬鉄道工事に十九年三月まで苦役に従事し、終了に伴い紀州鉱山に送られてきたのである。マレー地区は、紀州鉱山を経営する石原産業が戦前より企業進出していた地であった。戦争中は南方資源開発の命をうけ、軍に協力してマレー地区の事業推進を担当して、ボーキサイトをはじめ、錫・鉄鉱の鉱山の開発経営にあたっていた。

彼等は、車の監督のもとに、板屋選鉱場の西側所山につくられた収容所で生活しながら、抗内作業その他に従箏していた佐々木仁三郎の『三重県終戦秘話』によれば、彼らは仕事に対しては勤勉であり、かつ能率的であると、職員から聞いたと記されている。収容所の生活も紳士的であった。イギリス人の自尊心と教養がさせたものか。収容所では捕虜の処遇によく注意を払い、日本人さへ物資の不自由の中で、農園を丸山地区に開き野菜や馬鈴薯の確保をはかるとか、村民も乏しい野菜提供するなどの温情を示した。また、浴場やパン焼釜を設置するなどよく意を用いた、彼らからも収容中の処置について感謝をうけたという。しかし村民は、防諜の取締りもあり、話しかけることもなかったが、動員された学生などの中には好奇心から接触した者もいた。
八月十五日の終戦とともに、自由の身となり九月八日トラックに分乗して、ユニオンジャックの旗をなびかせ、車上から手を振りながら帰還していった。敗戦という現実が身にしみて感じられた。しかし、内一六名は、異境で故郷の空を慕いながら寂しく病没した。現在所山の英国兵墓地に葬られ十字架の墓標の下に眠っている。銅板の墓誌銘には英文をもって「神のより偉大なる栄光の下に一九四一〜一九四五年の戦争中、ここ板屋、あるいはその付近で逝去せる、英国陸軍兵士のために」と刻まれている。

恵子・ホームズ (Keiko Holmes 西山出身で英国人と結婚) の『片隅に咲く小さき英国』の中に、マーフィ神父が板屋の外人墓地に語り、絶えることなく生花がいけられ丁重に祀られていることを知り、驚きと感動をしたことが記されている。小さな行為でも国際親善に役立っているのである。異郷で死んだ英国軍人の冥福を祈るとともに、戦争という悲劇を再びおこさない決意を忘れてはいけないであろう。
その後、平成四年十月九日恵子・ホームズさんとイルカボーイズ墓参実行委員会によって、元英国捕虜二四名らを招いて、慰霊祭と地元住民との交歓会が開かれた(詳しくは第八章鉱山の盛衰を参照)。

紀和町に眠る16名の氏名(英国大使館提供)
HUNT, Signa1man. James Roya1 Corps of Signals ハント・ジェイムス 英国通信兵団信号手
RAVDEN, Private Conrad Army Catering Corps ラヴデン・コンラッド 陸軍軍属炊事兵
JONES, Private Leonard 1/5th BattaIion, The Sherwood Foresters ジョーンズ・レナード シャーウッド森林連隊第1の5大隊兵士
LAMBETH, Private A1dert Ernest 1st Battalion, The Cambridgeshire Regiment ランベス・アルバート・アーネスト ケンブリッジシャー連隊第1大隊兵士
WALKER, Signa1man Albert Henry Percy, Royal Corps of Signa1s ウォーカー・アルバート・ヘソリー・バーシー 英国通信兵団信号手
DUNLOP, Fusi1ier John 9th Batta1ion,The RoyaI Northumber1and Fusi1iers ダンロツプ・ジョン 英国ノーサソバラソドフユージリア歩兵連隊第9大隊兵士
WATERS, Driver Frederick Norman Roya1 Corps of Signa1s ウォーターズ・フレデリック・ノーマン 英国通信兵団運転手
ROBB, Lance Corporal, Gordon Kenneth Roya1 Corps of Signa1s ロッブ・ゴードン・ケネス 英国通信兵団伍長
DREW, Private John Henry 1st Batta1ion, The Cambridgeshire Regiment ドルー・ジョン・ヘンリー ケソブリッジシャー連隊第1大隊兵士
WILLIAMSON, Fusi1ier Albert Be11 9th Batta1ion, The Roya1 Northumberland Fusi1iers ウィリアムソン・アルバート・ベル 英国ノーサソバラソドフユージリア歩兵連隊第9大 隊兵士
MORRIS, Lance Corpora1 Harold 9th Batta1ion, The Royal Northumberland Fusi1iers モリス・ハロルド 英国ノーサソバラソドフユージリア歩兵連隊伍長勤務上等兵
BARBER, Private Kenneth Char1es 1st Batta1ion The Cambridgeshire Regiment バーバー・ケネス・チャールズ ケソブリッジシャー連隊第1大隊兵士
ELMER, PrivateSidneyJohn亘erbert1stBatta1ionTheCambrid-geshireRegiment エルマー・シドニー・ジョン・ハーバート ケソブリッジシャー連隊第1大隊兵士
GRIFFIN, Signa1man Henry Daniel Royal Corps of Signa1s グリフィン・ヘンリー・ダニェル 英国通信兵団信号手
ROGERS, Signa1man Robert RoyaI Corps of Signals ロジヤーズ・ロバート 英国通信兵団信号手
THOMPSON, Lance Corporal Fred Lonsda1e 18th Regiment Reconnaissanc Corps Roya1 Armoured Corps トンプソン・フレッド・ロンズデイル 英国装甲兵団第18陸軍償察隊伍長勤務上等兵

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紀和町史から

英国軍捕虜と紀和町
入鹿(板屋)の山麓にある墓地、十字架の下に「偉大なる神の栄光と英国兵の記念のために 彼等は一九四一年〜一九四五年の戦争で日本国板屋付近で亡くなった英国軍隊の男たちの思い出を」と銅板に刻んだ墓碑があり、そこにはハント・ジェイムズ(Hunt James)通信兵団信号手外一五名の兵士が、はるかな異郷の地で永遠の眠りについている。

一九八九年一月三日、当時の捕虜であったジョー・カミングス(Cummings)からマーフィー(Murphy日本在住)神父へのに便りによると、彼等は昭和十七年(一九四二)二月十五日、シンガポール攻防戦で日本軍の捕虜となり、同年十一月下旬から十八年十月中旬まで、タイ領ノンプラドックからケオノイ川(別名クワイ川)に沿って、大ジャングルを北西に進み、国境を越えてビルマ領(現・ミャンマー)に至る、全長四一六キロメートルの泰緬鉄道の建設に従事させられた。
この鉄道建設に従事したのは、日本軍の鉄道連隊の将兵、一万四〇〇〇人、連合軍捕虜、五万五〇〇〇人、現地人労働者、六万人から九万人にものぼり、ジャングルを切り開き、岩盤を破砕するなどの難工箏が休みく続けられた。そのため、日本兵一〇〇〇人。連合軍捕虜一万三〇〇〇人、現地労働者三万三〇〇〇人、計四万七〇〇〇人もの犠牲老を出したため「死の鉄道」とも呼ばれ、戦後、国際法に違犯するものとして、捕虜虐待の責任が厳しく問われたところである(二河通夫氏『熊野誌』三十七号)

昭和十九年一一九四四一五月初旬にタイを後にして、三〇〇人単位の部隊に編成されたイギリス兵は、輸送船で、シンガポールを出港、途中マニラ(フィリピン)、台湾に立ちより、奇跡的に、米軍潜水艦の攻撃を避けながら門司を経て下関に到着した。上陸後は鉄道で大阪.名古屋.板屋へとたどり着いた。
同年六月十八日、度重なる移送で、疲労困憊の極に足した捕虜たちが、板屋選鑛場の西側に建てられた所山収容所に紀州鉱山の労働不足解消と、生産増強のために、軍監督下の基で配置されてきたのである。

当時、住民は捕虜に対する複雑な信条の中にありながら、温情をもってよく世話し、極度の食糧不足にもかかわらず、主食は最低割あて量を確保し、野菜等の供出にも積極的に協力した、という多くの美談が残されている。元捕虜、スタンリー・キィリック(S.R.J.Killick英国南部サザンプトン在住)から久保幸一教育長に届いた便りによると、「昭和十九年七月九日より鉱山での仕事が始まり、大半は坑内作業に、ごく一部は近辺の開墾に従事した。スケジュールは、朝七時には収容所を出て、昼食は十一時から十二時まで、三時ごろに仕事を終えて、五時十五分に収容所に戻ってきた。しかし九月一日からは、昼勤と夜勤の二交替制となり、夜勤組は午後四時ごろ、収容所を出て、真夜中に戻ってきた。休日は二週間ごとにあった。休日とはいえ外に出て運動することもなく、もっぼら読書やトランプ遊び、おしゃべりがささやかな楽しみであった」という。
彼らはこの静かな異郷の地に捕らわれの身であるとはいえ、その行動は常にイギリス紳士として誇り高く、住民にとっても学ぶべきものが多かったと伝えられている。昭和二十年(一九四五)八月十五目、正午、日本国の降伏、連合軍の勝利を知るとともに収容所内外に歓喜が満ち溢れ、彼等が村内を闇歩する姿を住民は戸を閉じて、そのすき間から眺め、不安の時を過ごした、という。
紀和町史 下巻409〜411頁より

戸の透き間からのぞき見るような卑屈な精神は誇り高い村民とは相反する行動で、そのような行動は推測の所産でしょう。私も村民の一人としてまた、体験者として否定しておきます。決してあり得なかったことはその後の関わり合いからも判断できると思います。
九月八日の朝、敗戦という住民の複雑な気持の中にも、去り行く者と送る者の人間愛で感慨無量、彼等はユニオンジャックの国旗を掲げた十数台のトラックに分乗して、元気な声で習い覚えた「サヨウナラ」を連発しながら手を強く振り続けながら入鹿の地を去った。そのひとり、ジョー.カミソグスは、自分の手で掘り出した銅鉱石と歓送の児童がもっていた手づくりの紙の英国の小旗、一膳の箸を宝物として今なお保管している、とのことである。

あの悲惨な戦争から五〇年の歳月は流れた。元捕虜たちの出身地は、イギリスとスコットランドの境の村、クリーブランド地方のパーウイヅクオン・ツイード地方から三分の二、残りはロンドンに至る南の地方の出身者だったことも教育委員会関係者との文通によって、明らかになってきた。紀和町とクリーブランドに「平和の虹の架け橋」が花咲こうとしている。
キィリック氏の住むサザンプトンの町に極東で死亡した友人捕虜たちへの記念樹があり、彼も常に花を捧げているという(1991年10月20日久保教育委員長宛の便り)。同氏の詩を示そう。

マリーゴールドたちが咲いている。
マツムシ草も元気そうだ。
かわいい、青い,ロベリアも
仲良く並んでたっている。
しかし、彼らをじっと見つめると
私たちの心は
この花を見ることも
イギリスの一本のバラの香りさえ
かぐことのできない
今は亡き人々へと移っていく。
(宇恵友子翻訳)

労役の地に墓参 当町平谷出身で英国.ロンドン在住の恵子・ホームスさんが、ロンドン極東捕虜協力会に顔を出すなどして「イルカボーイズ」と呼ばれる元英国兵捕虜たちと交流、亡き戦友の墓参と墓守りを続けてくれた老人クラブの人や鉱山で働いた人びとと再会したいとの希望が寄せられ、これらを受けて平成四年ロンドン側と日本側にイルカボーイズ訪日墓参実行委員会(会長村上岩太)を結成。十月訪日を目指してただちに募金活動が開始され、多くの人びとの共感をよび、全国各地から善意の募金が寄せられ、ついに訪日墓参の夢がかなえられるにいたった。
ホワイト団長のもと二四名の一行が入鹿の土を踏んだのは平成四年十月八日である。彼らは四七年振りに鉱山へ帰ったのである。中浦町長をはじめ町民多数の出迎えをうけ歴史的な再訪を果たした。瀞流荘で一泊、九日の午前十一時から戦没者墓地において、町内外関係者二百余名の参列のもとに慰霊追悼式が行われた。英国大使館武官およびイルカボーイズの面々は、異境で果てた一六人の戦友の霊に長い祈りを捧げ、深い山間に英語と日本語による讃美歌の大合唱がこだました。

式典終了後レセプションにのぞみ、翌十日ユニオンジヤツクの波を背に受け、再び紀和町の地を離れていった。「許すことはできるが、忘れることはできない」Forgive not Forgetということばを残して。

データ
参考文献
  ・熊野市百科大事典
・「紀和町史」
その他関連情報
  なし


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