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熊野市百科大事典:イルカボーイズ 『イルカボーイズ 』 <
くまのしひゃっかじてん:いるかぼういず 『いるかぼういず』 > |
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熊野市百科大事典:イルカボーイズ 『イルカボーイズ 』 <
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熊野市(旧熊野市、旧紀和町) > |
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第二次世界大戦中、紀州鉱山では捕虜が働かされていました。ここで死んだ人もいました。帰国後、彼らは、イルカボーイズと称し戦友会みたいなものを作っていました。しかし、彼らの殆どは、日本軍の捕虜であった当時の苦しみを恨み、日本を憎んでいました。悪名高い泰緬鉄道の建設から、ここ入鹿に送り込まれたのですから当然でしょう。 しかし、ここで死んだ捕虜たちの墓を地元の老人会の人々が、人に知られたいとか、褒められたいとかの理由でなく、全くの善意で、美しく守っているのが知れ、彼らの心も融けるとともに、ロンドン在住の恵子ホームズさん(Mrs. Keiko Holmes)と、地元の人々の努力で彼らを入鹿に呼び、慰霊祭を行う事が出来たのです。1992年の10月の事でした。
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イルカボーイズの墓は、鉱山資料館の近く、大きな通りからは一寸入った所にあります。今も美しく守られています。
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イルカボーイズの事を語るにはどうしても泰緬鉄道について語らざるを得ません。そもそも、連合軍の捕虜たちが日本と日本人を徹底的に恨んでおり、天皇の訪欧時にも激しい反対運動を展開したのは、泰緬鉄道の為なのです。
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泰緬鉄道とは、戦時中に日本軍によって建設された、タイとビルマを結ぶ鉄道です。泰とは、タイ国です。緬とは、緬甸(めんでん)即ちビルマ今のミヤンマーのことです。タイ側の起点は、バンコクから西へ70-80KMのノーンプラードゥク、ミヤンマー側の起点は、マレー半島の根元にあるモールメインから南に50KM程のタンビュザヤでした。距離は、415KMあります。両端を含めて55の駅がありました。
現在は、タイ側は、タイ国鉄のナムトク線として、130KMが残っています。ナムトク線沿線は、風光明媚であり、「戦場にかける橋」でも有名なので、今は観光地としても有名になっています。 ミヤンマー側は全て廃線となりました。 1957年の映画「戦場にかける橋」のモデルとなったのは、タイ側起点のノーンプラドゥクから北へ50-60KMの、メークローン川(クウェーヤイ川)とクウェーノーイ川の合流点に架けられた橋で、地図で言うと、カーンチャナブリーのところです。橋は全長300m、水面上三階建ての木橋で1942年12月に完成しました。この地点は、戦略上重要拠点でしたので、木橋完成後直ちにコンクリート橋(1943年5月完成)が平行して架橋されています。
建設の計画 泰緬鉄道については、日本軍のタイへの進駐前に既に、可能性が日本軍の鉄道部隊の中で話されていましたが、具体的な構想は1941年(昭和16年)11月ころがはじめです。 日本軍のタイ進駐は1941年12月8日です。構想はそれ以前からあったのです。 1942年3月には、南方軍が建設を申し出ましたが、その時は、中央(大本営)は不許可としています。建設の困難性に対して、資材や労働力の面での具体性に欠くというのが理由でした。日本軍の性格がここでも表れていますが、現地は、敵(この場合は建設の困難度)を侮り、下算しています。これに対して、この時点では中央は建設の必要性を強く感じていなかったので、冷静に見ているようです。タイとビルマを結ぶ交通路として泰緬鉄道のルートは最短のルートでは有りますが、条件的には悪かったのです。 しかし、1942年6月6日、ミッドウェーで日本海軍が完敗した事から、南方に於ける日本の制海権が危うくなりました。そうすると、中央は、1942年6月20日、泰緬鉄道の建設を指示します。すなわち、情勢を、自分の都合(この場合は、建設が必要となったという都合)に合わせて、解釈しているようで、極めて日本的であります。 この少しまえの6月7日には、南方軍が建設準備指令を出していました。
捕虜の使用 必要な建設資材特に機械は全く不足でしたから、必然的に、人力に頼らざるをえない。人力は、捕虜を使うことにならざるを得なかったし、南方軍の準備指令でも大本営の建設指示でも労働力としては捕虜をあてる事になっています。 大本営も南方軍も捕虜の使用には何のためらいも無かったが、国際法には気を使いました。 1929年のジュネーブ条約は、日本は、調印はしましたが批准はしていません。この条約では、捕虜の使役は、将校を除いて健康な捕虜は労働者として使える事になっていますが、作戦行動には無関係でなければならず、不健康且つ危険な労働には使えません。この為、大本営及び南方軍では泰緬鉄道に軍用鉄道とか作戦鉄道という言葉を全く使っていません。
鉄道の性格 しかし、現地おけるタイと日本の交渉においては日本側は、「作戦用の軍用鉄道」と認めざるを得ませんでした。タイ側としては、この鉄道を軍用と規定する事によって日本の権益が生じるのを避け、軍用鉄道として双方が利用する建前をとり、建設に一部でも参加する事によって、この鉄道がタイのものである事を日本に認めさせる必要があった訳です。日本側としては、この鉄道が軍用のみならず交易路としての鉄道であり、戦争が終わったら南満州鉄道などと同様に日本の権益としたいという意図がありました。この間の交渉において、日本は、戦後も日本のものにしておくつもりはないと答えさせられています。又、タイの国内の法律上はこの鉄道は、実際には日本軍が建設しているとしても、法的には、タイの軍と鉄道局が建設している事になっていました。
建設 1942年6月23日から30日にかけて、建設労働者として、最初の捕虜がタイに送りこまれました。イギリス兵3175名です。 6月28日、ビルマ側タンビュザヤ駅でゼロ距離標が打ち込まれ、 7月5日には、タイ側ノーンプラードゥクでもゼロ距離標が打ち込まれました。ノーンプラードゥクは、バーンポーンの東に泰緬鉄道の起点として建設された新駅です。 7月下旬からは、日本兵が続々と、バーンポーンを中継基地として、カーンチャナブリーに送り込まれています。 8月15日には、泰俘虜収容所が、バーンポーンに設置されました。この頃から、建設が本格化したと言えるでしょう。 捕虜が本格的に送り込まれるのは、1942年10月13日以降です。シンガポールとタイのバーンポーンは2200KM、軍用貨物列車で5日5晩の旅でした。 12月には、建設従事者として、日本兵4,760、捕虜12,170がタイ側によって確認されています。
連合軍側の資料によると、 1942年6月から1943年8月迄にタイとビルマに送り込まれた捕虜の数は次の通りです。 イギリス 豪州 アメリカ オランダ 計 タイ 29,631 8,507 494 12,378 51,005 ビルマ 500 4,497 192 5,612 10,801
死亡者数は、12,339となっており、死亡率は20%です。なかでも、1943年4月から5月にかけて送り込まれた約10,000は、死亡率40%に達しています。 収容所は奥地に行くほどひどく、食事と補給品は貧弱で、労働は苛酷、病気は蔓延し、監視兵は残酷でした。食事は、働かない病人には支給されなかったと書かれています。 1943年の5月以降が最悪の状況で、捕虜のうち半数程度しか働けませんでした。連合軍は、戦後の調査で、補給の困難と危険は認めながらも、日本軍の管理と運営のまずさを指摘しています。ろくな食い物も与えずに、屋根も無いような収容所で、まともな便所も無い不衛生な場所に、健康な者も病人といっしょくたで暮らさせて、重労働させたら、働ける人間が無くなることは明白です。例えば、ビルマとの国境に近いニーケという所のキャンプ地では1943年6月末には、 5,000人のうち僅か700人しか働けない状態になっていました。 尚、アジア人労働者については、人数、死亡率等分っていませんが、捕虜に対するよりもさらに苛酷な扱いであったようです。 10万人以上が従事したと思われますが、総数も、逃亡者数も、死亡者数も不明です。大体、1/3が途中で逃亡し、1/3が死亡し、1/3が帰還できたものと考えられています。
1943年8月頃になると、完成の目処がたって、若干、労働条件が改善されました。建設指揮官の交代や、工期の2ヶ月延長、又、大本営や南方軍のほうで、捕虜の取り扱いに関して、改善処置がとられていたことが影響を与えたようです。
完成とその後 1943年10月25日開通式が行われ、完成しました。 工期短縮のため、規格を簡略化したため、はじめの計画の日量3,000トンが、日量1,000トンに減らされました。インパール作戦は翌1944年3月に開始され、泰緬鉄道はその物資輸送に使われました。勾配も急で、路盤も軟弱であり、通常平均運転速度は10KM内外でした。輸送量は、日量1,000トンを輸送できたのは始めの僅かの期間で、その後は600トンがやっとでした。機関車は日本から送られた「C62」20両が主力でした。輸送は、1944年6月迄は順調でしたが、雨季に入ると、路盤の流失、土砂崩壊、橋の流失が続き、雨季が上がると空襲が頻繁となり、夜間運行となりました。脱線も頻繁でした。 なんとか戦争が終わるまで持ちこたえたという実態のようです。 ----------------------------------------
日本へ送られる捕虜 1943年10月25日の泰緬鉄道完成後、残っていた捕虜の内10,770は、タイから日本と仏印へ送られました。日本に送られたのは、次の通りです。 イギリス 豪州 アメリカ オランダ 計 3,600 2,236 32 2,586 8,454
送り出しは1944年5月末頃からです。しかし、途中で、アメリカの潜水艦に沈められた船も有り、日本に到着した捕虜はもっと少ない筈です。 ノーンプラードゥクからは、例えば、1944年5月末に456名が送られ、シンガポール経由で、 4,000トンの石炭貨物船「日置丸」で日本に向かっています。彼らは、1944年6月26日に門司に着きました。
イルカボーイズ イルカボーイズは、泰緬鉄道建設に酷使され、その後、昭和19年(1944)に頑健な者300人が紀州鉱山に送られました。上記の人々のうち、どれが入鹿に送られたのかは、まだ調べが付きません。 彼らは門司に上陸しそして入鹿に送られました。木造二階建ての、学校の校舎みたいな建物が捕虜収容所で、周囲は塀と有刺鉄線で囲まれていました。取り扱いは、ビルマよりは格段に良かったようですが、なにせ食糧事情が悪く、終戦までに事故や病気で19人が死にました。尚、取り扱いが良かったとはいえ、軍関係では、捕虜をぶん殴った者もいたようで、少数ながら戦犯が出ています。地元民からは、戦犯は出ていません。終戦後、彼らは、1945年9月9日に入鹿を発ち、10月30日にイギリスに戻りました。それから47年、彼らは日本軍の捕虜であった時代を恨み、日本人を恨み、苦しかった捕虜時代を忘れようと努めてきたのです。 戦後、地元では死んだ捕虜達の為に外人墓地を作り、地元の手できれいにして守ってきました。道路建設の都合で外人墓地が移し替えられた時にも、紀州鉱山の持ち主である石原産業の提供した土地に移し替えられ、慰霊碑も建てられ、地元の寺の坊さんによる慰霊祭も行われました。その後も地元老人会が墓を美しく守ってきました。この事が知られたきっかけは、 1988年6月、和歌山県新宮市のカトリック教会のクレアリ神父が、東京から新宮に来たアイルランド人のマーフィー神父(Father Cyril Murphy)を、「いいところに連れてってやる」と言って、外人墓地に連れていった事でした。この時、紀和町の教育長が、外人が外人墓地に来ていると言う事を聞いて、外人墓地に駆けつけて応接し、説明をしました。 マーフィー神父は、外人墓地が美しく守られているのに感激し、その事を、英国のカトリックの新聞に載せました。それを、イルカボーイズの一人であるカミングス氏(Mr. Joe Cummings)が読み、マーフィー神父に手紙を書いたのです。 一方、恵子ホームズさん(ロンドン在住)は、故郷が入鹿の近くでしたので、帰国する度に、ここを訪れ写真を撮ったりして、この事を英国人に伝えたいを思っていました。カミングス氏の手紙は、マーフィー神父から新宮の教会に送られ、新宮の教会のタニガミさん(漢字不明)という信者を経由して、恵子ホームズさんの母に伝わりました。そして、ロンドンの恵子さんに伝わったのです。物事は、伝わる必要のあるところには伝わるのですね。感嘆します。
恵子さんは、カミングス氏とコンタクトし、自分の撮った写真を見せ、話をしました。これが始まりです。墓地の話がイルカボーイズの機関紙に載ると、恵子さんのところに手紙の山が来ました。恵子さんはこれをまとめて本にしました。 「A LITTLE BRITAIN」 と言う題です。92年に、英国や英国の日系企業の協力を得て、恵子さんの努力で出版されました。この間、日本では、戦時中紀州鉱山に勤労動員されていた木本高校の同窓生が集まって、 1990年には外人墓地で慰霊祭を行いました。 92年3月、恵子ホームズさんが岡室さん(慰霊祭を行った木本高校同窓生の一人でまとめ役)に、イルカボーイズを日本に訪問させたいという手紙を書きました。それから、日英両国で募金活動が始まりました。岡室さんは気楽に始めたと書いていますが、両国で合わせて1000万円以上、日本側でその6割以上集めたわけで、かなりしんどい事であったろうと思います。某テレビ局が、この事を聞いて、岡室さん達とは別に、イルカボーイズを呼んで慰霊祭を行うようなこともありました。
1992年10月7日(わずか半年で、実現させたのは素晴らしいことです)、イルカボーイズ一行28人が熊野市に着き、8日に板屋入り、9日慰霊祭を行いました。 一行のなかの、Mr. Jimmy Walkerが書いた「We went back to prison camp!」というエッセイは、 「47年目のめぐり会い」 の2冊目に載っていますが、楽しく、ユーモアのあふれた一文です。 (許可が得られれば、載せたいと思っていますが、なかなか翻訳する暇も無いし、その内ネ)
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参考文献 |
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・熊野市百科大事典 ・「47年目のめぐり会い」 ・「泰緬鉄道」 |
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その他関連情報 |
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