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ホーム >> 東紀州百科事典 >> 民俗・文化・歴史 >> 熊野市百科大事典:プロペラ船 『他の河川への進出』  < くまのしひゃっかじてん:ぷろぺらせん 『ほかのかせんへのしんしゅつ』 >
東紀州百科事典

ジャンル: 民俗・文化・歴史 | 自然・風土・環境 | 方言・郷土料理・物産 | 行政・統計・経済

民俗・文化・歴史 熊野市百科大事典:プロペラ船 『他の河川への進出』  < くまのしひゃっかじてん:ぷろぺらせん 『ほかのかせんへのしんしゅつ』 > < 熊野市(旧熊野市、旧紀和町) >
熊野川での成功に自信を得た経営幹部は全国各地の有望河川に進出を企てました。しかし、残念ながら長く続いた所は有りませんでした。
まず大正 10年 (1921年) 春、熊野川での成功の翌年早くも、近いところで、同じ和歌山県の古座川に進出しました。これは沿岸の人口が稀薄のため一年で中止のやむなきに至りました。

古座川のプロペラ船については、サンデー毎日の昭和 5年 8月 3日号の新日本百景特集で、古座川についての記事があり、「プロペラ船がある」と出ています。上記の一年で中止したと言うのは思い違いか、他の会社がやっていたのか、記事の誤りか、もう少し調べてみます。

続いて、大正 10年 (1921年) 秋、天竜川に進出。沿岸道路開通のため 2年で中止。
熊野市百科大事典:プロペラ船 『他の河川への進出』 これについても天竜川の現地の資料では、少なくとも昭和 13年までは続いたようです。熊野川飛行艇が関与したのが 2年だけということかもしれません。
天竜川のプロペラ船については、「遠州鉄道40年史」、「天竜市史」、「天竜川交通史」等に書かれています。

北遠州の天竜川流域は熊野川同様に道路が不備でバスの発達は遅かったのです。浜松から二俣までバスが開通したのは、大正 8年です。この為、川舟が利用されていましたが、上りは大変時間が掛りました。
この改善を志した磐田郡竜山村の太田鹿吉が、熊野川のプロペラ船を視察して、同士を募り、天竜川運輸会社 (後に、天竜川飛行艇(株)となる) を設立、大正 11年 (1926) 5月10日に、初めて、二俣 - 西渡 (水窪川の合流点) 間にプロペラ船を運航しました。プロペラ船は、飛行艇と称しました。当時のプロペラ船の写真は、天竜市史にあります。左のものです。コピーからのスキャンなので見にくいですが、船名は天竜丸、船型は少し違いますがプロペラの据付は当然ながら熊野川の初期のプロペラ船と同じです。

プロペラ船は期待に違わず非常に速くて、二俣-西渡間約 7里を定員 20人を乗せて 3時間で上がりました。速い時は 2時間少々で上がりました。下りは定員 35人で 2時間、軽い時は 1時間半でした。ガソリンエンジンでしたので ( 熊野川のプロペラ船も戦前はガソリンエンジンです ) ガソリン代が高く、貨物は積みませんでしたが、鮮魚、郵便、新聞、乗客の荷物だけは運びました。
同社は、事務所を二俣町西古町に置き、天竜丸を西渡 - 鹿島間で日に一往復運行させました。時刻表は、下りは、西渡発 8時、鹿島着 10時、所要 2時間で普通の舟の半分でした。上りは、鹿島発 12時、西渡着 16時でした。寄港地は、最上流の西渡から下流に向かって順に、大輪、生島、青谷、西川、戸倉、雲名、横山、相津、船明、塩見渡、川口、鹿島です。

大正 12年には、飛鳥丸を就航させ、二隻で一日 2往復、特別の時は 3往復しました。料金は 1円 50銭でした。しかし、同年 10月、天竜橋上流の「とび岩」に衝突沈没し、※9名の死者を出す事故 を起こしました。
事故の影響もあったのかもしれませんが、運賃が高いと言われて利用はなかなか伸びませんでした。昭和 4年の運賃は、西渡 - 鹿島間で 5円 50銭でしたが、これを 3円まで値下げしました。当時、米 10キロが 2円50銭くらいです。経営思わしくないので、昭和 5年には、天竜峡に上がって天竜峡 - 時又間を運航してみましたがここは既に鉄道もバスもあり問題にならず 2ヶ月で中止となりました。

天竜川飛行艇は、昭和 6年には秋葉自動車会社に運航営業権を売り、秋葉は昭和 7年 2月 9日に許可を得て、以後は秋葉自動車の経営となりました。秋葉自動車は、西渡 - 中部 (佐久間町) 間にプロペラ船を運航しました。
この間、バス路線は徐々に伸び、昭和 9年2月23日には、西渡のすぐ下流の大井までバスが開通しました。秋葉自動車も、大井まではバスとなり、西渡から中部までの約 1里程だけをプロペラ船を運航させました。

終焉は、遠州鉄道 40年史では、昭和 13年です。石油消費統制策によりガソリン消費量の多いプロペラ船は、2月28日に休止届けを出しました。以後再開はありませんでした。他の本では、昭和 15年 (1940) 廃止されたとあります。二年のずれに付いては不明です。
大正 11年 (1922年) 初め、現地の多田商会と提携して、朝鮮鴨緑江に進出。
今のところ資料を見つけていません。
同じく大正 11年、四国の四万十川に進出。沿岸道路開通のため 5年で中止。
角川日本地名大辞典「高知県」の四万十川の項に「河川定期航路として、大正 11年頃から昭和 2年頃まで中村 - 江川崎間をプロペラ船」が走ったとあります。

中村 - 江川崎間は約 40KM です。この間のプロペラ船は津大村 (今の西土佐村) の人が中心で運航されましたので、 西土佐村史 でみつける事が出来ました。四万十川水系の舟運は、舟母 (せんぼ) といわれる川舟でした。長さ 13M 幅 2M、約 4トンの荷が積めました。8反帆ですから、熊野川の 3反帆よりも大きいです。男女一組、多くは夫婦で運航しましたが、往復 3日がかりでした。
大正11年 2月28日の津大村村議会で四万十川流域飛行艇運航補助が決定されています。酒井藤一郎、岡崎思郎、竹本冨三郎の三名が、川崎 - 中村間に飛行艇 (プロペラ船) を就航させる計画で、その購入補助金の申請に対し 100円の補助金が決定されたものです。

この飛行艇は、長さ 7M ほどの舟の後部に直径 2.5M 位のプロペラを取り付け発動機によって回転させ進行させたものでありかなりの速度が出たもので、飛行艇が通ると両岸に大波が打ち寄せ水際近くの干し物が流されることがあったほどである。
と書かれています。

四万十川のプロペラ船は、酒井藤一郎が発起者で、熊野川でのプロペラ船を見て、その便利さに打たれ購入運航に着手したものです。四万十川流域住民は、多いに便利になりましたが、経営は困難になり、バスの開通もあって、昭和 4-5年頃から姿を消したと言うことです。
酒井藤一郎に付いてはまだ見つけていませんが、竹本冨三郎は、津大村の村長を勤めたほか大正 12年から昭和 14年まで県会議員を勤めた人です。岡崎思郎も津大村の村長を勤めている人です。このように、四万十川流域のプロペラ船は、中村のような開けた都市よりも、むしろ奥地の人々の期待を荷なっていたと言えるでしょう。

昭和 4年 (1929年)、天満 (今の那智勝浦町) の人で和歌山市在住の由比太郎氏の仲介により中国の「太和公司」と提携し杭州の銭糖江に進出。船夫 4人を派遣し順調な業績をあげていたが上海事変のため引き上げ。
この頃、メキシコや南米チリ等へも求めに応じ技術員を派遣しています。


昭和 13年 (1938年) 海軍用の舟艇として 7隻を建造し揚子江に就航。喫水が浅いので機雷に触れないという長所を生かしたものでした。しかし、木造船であるため弾丸が貫通しやすく撃沈されやすいので戦地には向きませんでした。鉄材を用いると重くなってうまくゆきませんでした。
中国戦線のプロペラ船については、 「日本軍の小失敗の研究」 でみつけました。海軍ではなく陸軍とあります。日本陸軍の優れていた部分という章の中で三つの独創的なアイデアが上げられています。一つは、MT 船というドック型揚陸鑑で、世界に先駆けて日本陸軍が開発したものです。同じような船はアメリカやイギリスも考えましたが 1942年以降のことです。一つはこのプロペラ船であり、もう一つは、砲身の無い一種の臼砲です。プロペラ船については次ぎのように書かれています。
プロペラ推進艇
陸軍に関しては、これ以外にはいわゆる新兵器の類がほとんどなく、この検索には頭を絞った。その中で浮かんだのがプロペラ推進の舟艇である。日中戦争において中国軍(国民政府軍)は、大小の河川に構造の簡単な機雷を仕掛け、日本軍を悩ました。
南船北馬のことわざどおり、中国南部の交通機関は船に頼ることが多い。中国軍の機雷戦術は功を奏し、日本軍の河川輸送部隊は少なからぬ損害を出す。
しかも水深が浅いため本格的な掃海艇は使えず、熊野川、吉野川で活躍したプロペラ船の出動となった。プロペラ船(エアポート)は水中にスクリューなどの突起物がなく、水深五〇センチの浅瀬も航行可能である。
このプロペラ推進掃海艇は、延べ五〇隻あまり(新造船を含む)が大陸に送られ、水路の確保に使われた。陸軍のプロペラ船の運用状況を眼のあたりにし、海軍ものちに三〇隻を購入する。
これらのプロペラ船は全良一二〜一四メートル、一〇〇馬力の自動車用エンジンに直径二・二メートルの木製プロペラを直結し、約一〇ノット(一八キロ/時)の速力を発揮した。
第二次大戦においてプロペラ船を実用化したのは、日本の陸、海軍のみである。
鳥居氏の記憶ではそう役に立っていないようですが、他に、取り上げられるような物が無かったこともあるのでしょうが、ここでは大きく評価されています。又、「陸軍船舶戦争」(松原茂生・遠藤昭著 戦誌刊行会発行 1996年) には、昭和 13年 (1938) 6月から11月にかけての、漢口攻略戦の際の陸軍船舶隊の活動を述べた最後に、海軍の事として、
又、海軍が熊野川の観光プロペラ船七隻を徴傭、同型船三○隻を急造して揚子江に運び込み、その浅吃水を利用し機雷排除に使用したのもこの漢口攻略戦のときであった。


※天竜川の事故

天竜川のプロペラ船事故は、大正12年10月5日でした。ちょうど関東大震災の後で新聞はその関連記事で忙しかったのですが、東京朝日新聞に小さな記事が出ています。

----------------------------------
(東京朝日新聞 大正12年10月6日朝刊)


運輸飛行艇
破壊
十数名溺死
天竜川椿事

静岡県磐田郡二俣町鹿島天竜運輸飛行艇は五日午前十一時乗客二十八名と船員四名乗組み同所を出発した所途中鎖が切断し筏を避け損ね岩石に衝突破壊し乗客其他三十二名悉く激流にのまれ、内十八名は救助されたが其他は生死不明で午後二時までに浜名郡小 ? 口村鈴木忠兵衛の娘某他四人の死体を発見した (静岡電話)


----------------------------------
(東京朝日新聞 大正12年10月8日夕刊)


若い女が
大勢死んだ
飛行艇椿事

既報、天竜川飛行艇遭難者は左記九名であるが、儀作早見の死体は未だ発見されない
東京小石川区氷川下町三輪市郎浜松市鴨江区裁判所内柳澤きぬ(三五)静岡県磐田郡山香村西渡山下儀作(四四)同所安藤のぶ(一六)同所鈴木きぬ(二四)二俣町村松よし(二六)磐田郡熊村小山保平(四八)周智郡城 ? 村三井よの(二二)磐田郡佐久間村鈴木早見(一七) (静岡電話)
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6日の記事にある「鎖が切断し」は不明です。エンジンとプロペラは直結ですからチェーンはありません。

データ
参考文献
  ・熊野市百科大事典
・「日本軍の小失敗の研究」
・「西土佐村史」
・「東京朝日新聞」
その他関連情報
  なし


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