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ホーム >> 東紀州百科事典 >> 民俗・文化・歴史 >> 熊野市百科大事典:歴史 『北山一揆その3』  < くまのしひゃっかだいじてん:れきし 『きたやまいっきそのさん』 >
東紀州百科事典

ジャンル: 民俗・文化・歴史 | 自然・風土・環境 | 方言・郷土料理・物産 | 行政・統計・経済

民俗・文化・歴史 熊野市百科大事典:歴史 『北山一揆その3』  < くまのしひゃっかだいじてん:れきし 『きたやまいっきそのさん』 > < 熊野市(旧熊野市、旧紀和町) >
尾鷲(今の三重県尾鷲市)の杉野長左衛門(浅野忠吉の家臣で250石)は、関船に大勢乗り、鉄砲100丁用意してやって来た。関船は成川の深谷前の川中に近づいたが、敵は、まさか船に人が乗っているとは知らなかった。船は徐々に陸に近づき川下から火を付けて焼き立てた。其の勢いを見て新宮からも川を渡って追い立てた。
新宮の鍛冶町の善兵衛という者がいて、深谷口にて首一つ討ち取って、敵味方に見せた。北山の者はたまりかね、相野口の芝が瀬を指して、敗走した。
この時、中新之丞、庄司兵左衛門という者もいたが、この二人が、船の方の人数か新宮の者かは分からない。


「関船」というのは軍船の一種である。一番大きな、いわば、戦艦にあたる船を「安宅」といった。「関船」はそれより小さく、巡洋艦にあたる。さらに小型の軍船は「小早]と言う。
「関船」は40挺から60挺の艪で漕ぐ。艪の間隔は一尺八寸(55CM)位。船の大きさは、40挺艪の小型の船で、「かわら」という船底の縦通材の長さが36尺前後、肩幅12尺前後、深さ5尺前後である。帆は10反帆である。船の全長は「かわら」の長さの2倍弱であるから、大体20M位であろうか。幅は4M位になろう。
大阪・江戸間で活躍したいわゆる千石船の桧垣廻船の大きさは、19世紀の始め頃で、全長88尺位、「かわら」の長さ42尺位、深さ8尺位、肩幅22尺位である。つまり、大体、全長30M、幅は7Mであるから、これから想像して欲しい。

相野谷川(おのだにがわ)は、風吹峠付近を源に南流する熊野川の支流である。川沿いには、大里、高岡等の集落があり、肥沃な農業地帯となっている。この相野谷川が熊野川にそそぐ合流点の東側が相野口というところである。相野口の奥に、がっしりした体つきの男が一人隠れていた。新宮の家来の家中のものがその男を見つけ、
「おまえは片川村の八兵衛だろう。早く出てこい。命は助かる。」
と声をかけると、その男が出て来たので、それを捕え新宮へ連れて行った。一揆の一味の者だったので、捕まえた男も、新宮の公儀に忠節な者として、一番駆けの中に入った。これが誰の家中の者だったのかは分からない。

一揆の大将の津久は、大里村で、一揆の面々に指示して
「各々がたは、明早朝に牛鼻まで出よ。我々は、時間を見計らってでる。」
と言い、翌早朝、人足を10人程かりだし、乗り物に乗って人足にかつがせ、旗を一流れ押し立てながら、大里から5町程下まで出て来たところ、新宮勢から追い崩され逃げて来た者と出会った。
「新宮の様子はどうか」と聞くと、
「馬鹿なことを言うな。牛鼻から先へは進めなかった。その上、新宮の兵がおっつけ此処まで追ってくるだろう」
と、息もつけずに言ったので、人足共は、乗り物を田に投げ捨て、ちりじりに逃げ去った。津久はどうしょうも無くなって、北山目指して引き返した。その後、大峰の近くの仙台という所で、飢え死にしたと言われる。

芝次郎左衛門という者がいた。この男が牢人だったのか、地侍だったのかは分からないが、川を越えて牛鼻辺りまできて走り回って見たけれども、一揆の奴等はとっくに敗走し一人もいない。しょうがないと思って、見回すと、向こうの物陰に幟が見えた。いい相手がいたと喜んで近づくと、敵は一人もいない。それで、印にこの幟を取って帰ったそうである。

個人的な記録に次のような事が書いてある。「この次郎左衛門と言う者は、世間が静まってから批判されたが、一揆の奴等の事とは言え、敵の旗を奪ってきたのは手柄であるとして、若狭の京極忠高に召し抱えられて300石をもらったとのことである。
調べてみると、榎本氏の覚え書きの中に、
佐野(新宮市佐野)から出てきたという一人の若輩者が、味方から同士討ちにされそうになっていたのを、榎本が、追い払った。この若者は敵を追いかけたけれども敵が早く逃げたので何も出来なかった。この若者がその後江戸で奉公しようとしていた時、その主人から、何か言えるような事はないか、と聞かれたので、その時のことを答え、榎本に書き付けをくれと言ってきたので、その事を書き送ってやった
とある。
その若者の名前は書いていないが、芝氏の事かもしれない。しかし、その場の様子も違うので、別人かもしれない。」

一揆勢が通過した村々は、村の指導者層の者が寄り合い、「良く考えて見ると、一揆は、思ったようには上手く行っていない。いまは、考え所である。我々は、領主の方に忠義をすることが第一である。」と心を変えてしまった。
この辺に、強いものにつくという戦国の村の生き残り方がよく見える。しかも、早速、落ち武者狩りをしている。
大里村の、田中次郎禰宜は、北山の者の帰るのを見て後を追いかけ、平尾井村の後ろで日暮れ頃に一揆の者と戦い道から下の小川谷へ切り倒した。もはや死んだと思って明朝首を取りにくればよいと宿に帰った。自分も少々浅手を負った。翌朝、人を遣って見させたら、逃げたようで、見当たらない。浅手で、死んだ真似をしたようだった。その日に、西村(大里村は西村と東村に分かれている)の者が一揆の者の首を一つとった。田中はその首を貰って、東村の田中がこの首をとったといって差し出したという。
西村の山城は、一揆の者を宿泊させ、その上、かれこれ取り持つなど、一揆に協力したので、後に一揆の仲間の詮索があった時、危なかったのだが、田中もこの山城も許された。それは、長袖の者(公家や僧侶や神主のこと)であったからである。

大阪冬の陣は12月20日には和睦がなり、諸大名はいずれも帰国となった。浅野長晟は23日には家康の命令で帰国、新宮領主の浅野忠吉も帰国した。家中の者も皆帰国した。12月の末、和歌山から一揆討伐の命令がでた。
「和歌山領の北山は残らず焼き払え。邪魔する者はすべて切れ。大和領の北山は、これも、十分に調べた上、一揆に加わった者はみな、討ち取れ。」というものであった。
また、和歌山から熊沢兵庫が、一揆討伐のために派遣されてきた。一説には、討伐の先手の大将が浅野右近太夫(新宮城主)と熊沢兵庫で、その外に馬上の士が50騎と言う。

新宮からは、永田正、政所巻本荒助、中川角右衛門その他、新宮の領分で名のある者は皆、熊沢兵庫に従って、12月27-8日頃に、出発した。まず、尾呂志で人数を揃えてから、しばらく方針を協議し、それから、入鹿(三重県南牟婁郡紀和町)へ我先にと入り込んだ。片っ端から家々に火をかけ、焼き払った。他の面々も、手分けして、あちこちの村々を焼き払った。

長井村 (現熊野市育生町長井)の万重寺は、有馬の安楽寺の末寺で、七堂伽藍の大きな寺だったがこの時焼き払われた。和歌山からは、万重寺は焼き払うに及ばずとの直使を出したが、間に合わなかったといわれる。
しかし、長井村の五味は一揆の大将格であったから、万重寺が焼き払われたのは当然と思える。

大沼村(和歌山県東牟婁郡北山村)は北山川の北岸で、対岸は大井(熊野市育生町)である。この辺でも北山川の川幅は100M以上あり、歩いて渡る事は出来ない。大沼村と竹原村の間は北山川沿いの道である。道は狭く、数々の難所がある。一揆勢は、道の上に大木を切っておき、縄で括っておいて、新宮勢が通りかかれば縄を切って大木を落とす仕掛けを作っていた。寄せ手の新宮勢は、小川村(尾川村のことか?)に陣取り、情報を集めて色々と検討した。その仕掛けの事も寄せ手は内々に知り、その手には乗らなかった。
大沼村の前の川から東よりで、寄せ手は盾を配り、鉄砲で撃ち合った。その時、山の者の中から若い男が二人、赤い裏地の羽織を着て、馬乗りの身分である事が明らかな長羽織を着て現れた。川の側に来て脛を捲り上げ、此処を撃ってみろと叩いて見せた。寄せ手は是を見て、なんと生意気な奴等だ、逃さず討ち取れと言い、浅里村の文助という者を選んで、百間程の距離を火薬を多く使って只の一発で撃ち倒し、二発めでもう一人も、撃ち倒した。寄せ手の誰もが賛嘆し、その声がしばらく止まなかった。

熊沢兵庫も大沼村へ行こうと思ったがその日に限り特に寒気がきつかった。誰もがどうしたらよいか考えていると、兵庫はそのまま馬を泳がせて渡った。従う小者たちも馬の尾に掴まって難なく渡ってしまった。そこに、年頃50歳くらいの者が夫婦で居た。その家名は木の室と言った。兵庫は直ちに飛び掛かり組み打ちとなった。しかし、兵庫は甲冑であり、木の室は素肌であるから、木の室は兵庫を何の苦も無く膝下に押し付けた。敵はここだと声を上げたが、敵は丈夫な松割り包丁で兵庫の兜を、したたかに打ちすえた。兵庫が危なく見えたときに、味方から兵庫を討たすなと、声が上がり、新宮の住人で永田五良右衛門という者が駆けつけて、木の室を討ち取り、首を兵庫に差し出したと言う。前に、一揆の首謀者で、山室と言ったのはこの木の室のことかとも言うが、古老の覚え書きにも、木の室ではなく山室鬼助となっている。


一揆のときには、南の、那智組、色川組、太田組、古座組も、北山一揆と同じ日に一緒に蜂起して新宮を攻める手はずであったが、北山が一日早く出た為に、南筋の者は、蜂起しなかった。ただ、南筋の者は、日取りが違ったという理由ではなく、そもそも一緒に蜂起するという考えを、変えてしまったようでもある。本来は、新宮を手に入れ、田辺、和歌山へと押しかけることを堅く約束していたのである。この方面の大将は、色川組平埜村慶福寺の僧で龍雲といい、大力の者であった。刀は4尺にあつらえていた。この時は、南筋を走り回って、あちこちで話をまとめ、北山の者とも堅く連携した。
その後、一揆の調べがあり、奥の北山の頭分の者が追求された時に、この龍雲も、南筋の頭分であるとの訴えがあり、ついに死刑となった。

一揆の大将の津久は、先にも述べたとおり、大峰の近くの仙台という所で、餓死したが、その死体を誰かが見つけ出した。北山の者共が集まり、どうしたらよいかと相談し、一揆の大将の首を我々が討ち取ったと言って、差し出したら、今度の一揆参加者への処罰を逃れられるかも知れないと、考えた。そこで、津久の首を取ったが、さて、誰が持って行くかとなると、誰も行く者がいない。そこで、下市生まれの、今は、池の峰(今の下北山村池峯)に住んでいる、小右衛門に持たせることにし、下市の代官に差し上げるべく、小右衛門が持参した。その後、今度の熊野の一揆の大将は、小右衛門という者が討ち取ったと言って江戸でも誉められたということである。

新宮の浅野忠吉が大阪に出陣のときには、城内あちこちに小屋を作り、在所在所の庄屋たちの妻子を一人づつ人質にとり、その人質小屋には、棟の高さまで薪を積み重ねておいた。これは、もし、一揆の者が、新宮まで押し寄せたら、火をかけて焼くためであった。

一揆の翌年には、一揆参加者に対する厳しい処置が行われた。
元和元年卯年(1615)関東の徳川幕府よりの命令で熊野の奥、北山との堺に一揆への抑えとして城を築くこととなり、奉行として藤堂和泉守高虎が命じられた。入鹿組の内赤木村(今の紀和町赤木)に城普請が始まった。

注)これは明らかに誤り。藤堂高虎が赤木に城を築いたのは、はるか以前、天正16/17年(1588-89)の一揆討伐の為です。

城が完成すると、紀州領のうち北山何村からは誰誰、この村からは誰と言って、早々に城に伺って新築のお城を拝しお祝いを申し上げるようにとの回状が回った。村村の者共は何の疑いも無く我も我もと罷り出て和泉守にお目にかかろうと赤木村へ詰めた。
ところが、その内の一揆の関係者は、城の玄関の違いの間で一人づつ呼び出しては絡め取り手錠をかけて縛り上げ奥へ連れていっては、また、その次は何村の誰誰と呼び出しては縛り上げ、このようにして段々に捕らえ、一人も残さず捕まえて、赤木村と大栗須村との間にあるタヒラコという尾根で一人一人首を刎ねた。

その外、新宮領と御蔵領(和歌山領)の入鹿組相野谷、熊野川の川筋の者など、一揆に関わりのあったものは取り調べの上、数百人を鵜殿の川原で一々首を刎ね獄門にかけた。

この年(元和元年 1615 卯年)には、昨年の冬の陣に引き続き大阪夏の陣があり、豊臣は滅亡、大阪は片付いた。この秋冬には、北山で一揆に関係した者を取り調べの上、牢にいれ、その後火あぶりとした。

ある書によれば、北山一揆を追い払って新宮が安全になったのは11月のこととある。また、右近太夫(浅野忠吉)の大阪出陣の留守に新宮を守ったのは、知行持ちつまり領地を持っている家来では戸田六左衛門をはじめとして21人、知行高は合わせて4,750石、切米分つまり領地を持っていない家来は青木小兵衛を始めとして19人、その外に中間頭3人(新右衛門、孫八、與九郎の3人)であった。
熊谷次郎兵衛は一揆の時の働きが良かったので浅野家に召し抱えられ、正保年間(1644-1647)に80余歳で病死した。
榎本太郎右衛門は前に書いたとおりの働きで、召し抱えられ、80歳位で病死した。今(これが書かれた当時)の太郎右衛門にとっては父方の祖父にあたる。

データ
参考文献
  熊野市百科大事典
その他関連情報
  なし


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