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熊野市百科大事典:歴史 『北山一揆 - その 2』 <
くまのしひゃっかだいじてん:れきし 『きたやまいっき-そのに』 > |
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熊野市百科大事典:歴史 『北山一揆 - その 2』 <
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熊野市(旧熊野市、旧紀和町) > |
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新宮城の留守を預かっていたのは戸田六左衛門という。浅野右近太夫 (浅野忠吉) の家老で 1000石取りであった。北山一揆の蜂起の注進を前日に聞き、迎え撃つ用意を固めた。
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まず、相野谷 (おのだに 今の三重県南牟婁郡紀宝町)、尾呂志 (おろし 今の南牟婁郡御浜町上野) で、体格のよい者を選んで、四五十人に鉄砲を持たせ、尾呂志の先、風伝峠付近で一揆を、押し留め、追払う計画をたて、青木小兵衛 (一説には小柳小兵衛) と言う者を組頭として、北山街道方面に派遣した。しかし、一揆はすでに風伝峠を越え、尾呂志を過ぎて片川村迄大勢で進出していた。青木も、計画と違ってしまった上に、いくら一揆の勢力は雑人共とは云え、多勢に無勢では対抗できず、新宮に戻った。
翌日には、一揆勢は、早くも、熊野川まで数キロの大里村 (今の紀宝町大里)まで押入り、ここで暫く留まって、新宮へ押し寄せる作戦をねった。尾呂志の辺りでも、百姓たち悉くに話を付け、大里村の藩の蔵にも、自分たちの封印を付け、米が入用となったらいつでも渡すようにと、庄屋共に厳しく催促した。庄屋共一同は承知しなかったが、それでも無理に取り上げたのは一揆の勢いが強かった為である。
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さて、一揆勢は新宮の様子を探るために、仲間のうちの二人を新宮対岸の鮒田村 (今の三重県南牟婁郡紀宝町) に斥候に出し、あちこちを窺わせた。ここでは熊野川は東に流れていて、鮒田村はその北岸に、新宮は南岸にあたる。鮒田村の南端を牛鼻と言い、ここに渡しがあった。其の夜、斥候の二人は鮒田に泊まった。
一方、それまでには、新宮からも、鮒田村に偵察要員を出していた。新宮勢は、この二人を見つけ、これは一揆方から偵察に来た者に違いないと見て、直ぐに二人とも討取ってしまった。この事を北山の一揆の者が聞きつけ、これは鮒田村から新宮に注進したからだと大いに罵り怒った。早速、大里から鮒田に指示があり、鮒田村の西庄七と鈴木勘七という二人が、大里村に出頭し、一揆の頭分の者共と対面した。
津久は、
「お前たちの配下の百姓が、用事があると言って牛鼻へ行き、早々と新宮に知らせ、我が方の二人の者を討せたのは全く不屈千万だ。このうえは、二人とも逃がすわけにはゆかぬ。」
と罵った。庄七、勘七の二人は、すこし考えて、
「その様にお考えになられても仕方が無いですけれども、こちらから新宮へ知らせたというようなことは全くありません。一揆が山中から出たことは、新宮にも内々に聞こえてきたので、新宮から二三人出て、鮒田村にも調べに来ております。その者が、二人を見付けて、不審者だと言うことで討取ったのだと思います。こちらから知らせたというようなことは絶対にありません。もし、私どもが知らせたと言うような証拠があるのなら、どのような処分を受けてもしかたがありません。」
と答え、さらに言葉をついで、
「皆様に申し上げたい事があります。御存知の通り新宮では、家中の士衆もよほど沢山あります。その外に牢人や社人、町人、百姓等も多くあります。おたずね申したいのは、皆様が、此度、新宮を攻撃するのに、その手段はどのようにお考えなのですか」
と述べた。その時一人が進み出て、
「お前たちが何を言いたいのか良く分からん。もう少し述べてみよ」
と言った。二人は、
「皆様にもお考えはあろうとおもいますが、敵味方の競り合いとなった時、熊野川を渡る手段をどうに考えているのか知りたいと思って、お尋ねしたのです。」
と答えた。座っている中に大里の門禰宜と云う者が居合 わせた。
「鮒田衆には少しも問題があるようには思えない。とにかく鮒田衆を味方に引き付けないといけない。牛鼻で熊野川を越える手だては、鮒田衆でなければできない。人は、急いで帰らせて、船橋の用意をさせようではないか。」 と言った。鮒田の二人はそれまでは何も考えが無かったが、ともかく、請け合い、一揆の仲間になったようにみせ、
「それならば、牛鼻には材木が沢山あるから、あらかじめ筏に組んで、皆様が出て来られる頃には熊野川に掛け渡して、安々と川を越させるように致しましょう。且つ又、二三日分の兵糧米なども、用意致しましょう」
と嘘をついた。それで、ようやくその場を立ち、危ないところを、虎口の難を逃れて帰った。帰りの道すがら、どうしたらよいか二人は相談した。一人が
「牛鼻に大きい筏をいっぱい組んでおいて、北山のやつらを乗せてから、新宮へ渡すように見せかけておいて、河口の方へ流してしもたら、太刀も刀も無しで勝てると思わんか」
と言うと、もう一人は、
「ええ考えやの。きっと上手いこと行くと思うわ。そやけど、もし、一揆が勝ったりしたらえらいことになるやないか。こらアやっぱり、鮒田辺りわしらが居るんが運が悪りいと思わな仕方ない。」
と言い、山の者に見つかって疑われても困ると思い、二人を始めとしてその外妻子を引き連れて奥山へ逃げ込んでしまった。
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新宮からみれば、鮒田村に問題はないけれども、村の人家をそのままにしておけば、一揆の連中に使われるので、鮒田村中、寺も残さずに、焼き払ってしまった。ただ牛鼻の宮寺(牛鼻神社)は無事であった。逃げるにあたり、村人は家財道具などをあちこち山林に隠し置いたが新宮から大勢押入、残らず奪い取ってしまった。
「戦国の村を行く」 を読むと、村が戦場になった場合戦争を避け生命財産を守るために、領主の城に近い村村では、村人は家財道具一切を持って領主の城にこもり、遠くの村村は山にこもったとあります。この場合も、その事例の一つでしょう。しかも、新宮方も人数が足りず、村人は新宮が勝つのか一揆が勝つのか判断できない状況であれば、どちらにつくことも出来なかった訳です。新宮が鮒田を守ることが出来ないならば、鮒田は新宮に味方する必然性は無いのです。新宮方が、鮒田村を焼き払って、略奪したと言うことは、鮒田村が新宮方からみて、敵方とみなされたとおもわれます。
一揆勢は北山街道を大里から高岡まで進出し暫く考えたうえで、時分を見計らって牛鼻迄押し出した。きっと筏と舟橋があるだろうと探したが何も無く、又鮒田村にも一人もいない。思っても見なかった事でどうすることも出来ず、熊野川を隔てて鉄砲で新宮と撃ち合った。
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この頃の鉄砲の射程距離はというと、弾は 700M位は飛ぶが、敵に対して、撃ち始めるのは距離 300M位から、有効な距離としては 100M位と言われる。牛鼻付近では川幅が 200M位あるので弾を撃ち合っても、実際は、有効ではなかったと思われる。
結果的には、鮒田村の者が一揆の者に罵られたことは、鮒田村にとっては、良かった事になった。つまり、一揆が終わったあと、新宮方では、一揆への参加、不参加の吟味をしたが、その時に、鮒田村の言い分が認められたのである。
熊野川の本川筋では十津川の流域の村々が示し合わせて、川を下り新宮の西郊外の熊野川屈曲点付近、桧杖村 (熊野川の北岸が、今の三重県南牟婁郡紀宝町北桧杖、南岸は新宮市の南桧杖) 迄進出、北の河原は一揆の者、南の河原は新宮方で互に鉄砲を撃ち合った。この競り合いは10月の末という。
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この時、宇井の地方組の五良左衛門という者は、町中より茶竪 (何でしょう? 調査中) を多数取り寄せ、是を盾にして一揆の者と撃ち合った。大変、頭のよいやりかただと皆感心した。その時、一揆の者の中から一人進み出て、南河原に向かって、
「そこでしきりに動き回っているのはいったいどこの誰だ」 と言って罵った。この者は一揆の大将であるのを見せ付けようとして、このような広言をしたようだ。後に一揆に参加した者を探索したときには、この者は真っ先に捕えられた。
牛鼻の人数は次第に東に移り、牛鼻よりやや下流の成川 (なるかわ) まで攻めて戦った。新宮側では人数を多く見せようとして、町中の老若みな川原に出るようにお触れが出て、我も我もと出て、川を隔てて敵に向かった。本町の浄円坊という者の妻で、気性激しく、賢い者があった。彼女は川原にでて大声を上げ
「おおいみんな、これはたいへんなことだ。油断するな。」
と言い、前の庵主の竹薮に駆け入り、竹を百本ばかり切出させ、その竹に角取紙 (どんな紙でしょうか? 調査中) を張り付けて一本づつ持たせ、長柄の槍のように見せかけた。そして、人々に、
「今は、領主は留守にしていて、味方は誰もいない。もしも敵の一人でも川を越させたら、みな舌をかみ切って死ぬまでよ」
と言い、こぶしを握り、歯噛みして駆け回った。この女のしたこと、その勇気のたくましいことを、みんな、他にはない事だと誉めそやした。
互いに、川を隔てて、鉄砲を撃ち合い、睨み合うばかりで勝負がつかない。町奉行の小堀武左衛門 (小森ともいう)、榎本太良衛門、熊谷次良兵衛が、馬で城の水手口から牛鼻の南岸まで乗り回り、指揮をして廻った。留守を預かっている戸田六左衛門は、その日、一揆が成川まで押し寄せた時には、成林寺という禅寺で碁を打っていた。
「一揆が、成川の深谷の川端まで押し寄せた」 「おっつけ川を越えて攻め寄せそうだ」
とかの注進が次々と来たが、六左衛門は碁を打ちながら、
「敵は川を超えるのは難しい。大河がある。」
と、悠々としていた。勇気があって、器量もある士だと人々は誉めた。戸田六左衛門の命令は、軽々しく川を渡って攻めるのを禁ずるというものであった。然し、榎本が、
「命令にしたがって守るのも尤もな事であるが、一揆の奴等が夜になるのを待って、大勢で攻め込み、町を焼けば難儀な事になる」
と言うと、熊谷は
「堅く無用との命令があるのだから、攻撃するのは見合わせるべきだ」
と反対した。榎本は
「それならば、おれ一人でやる」
と言って、手前にあった、平底の大きな川舟に乗り込み、白い竹刀で対岸を指し示しながら、一番に川を越えた。この時、小山久太夫という者は川下から、4ー5 反帆の舟に乗って漕ぎ出した。 4ー5 反帆の舟がどの位の大きさか良く分からないが、昭和の始め、熊野川のダンベ船は長さ 11-12M、幅 1.5M程度であったが、風向きの良いときは 3反の帆で川を溯ったと言うから、二三人しか乗れないような小舟ではないと思う。
榎本は、川の様子は良く知っているので真っ直ぐに川を越え、山の手に切りかかって敵を追い崩し、鮒田村へ追った。この時、熊谷も川を渡って来ていた。前方に敵が百人ほどいたが、榎本と大蔵見齋庄介というものと、町人の五郎太夫、加右衛門ほか五六十人で敵を追い払った。榎本と熊谷は、芝が瀬付近で敵の前に出、榎本が首一つ、熊谷も首一つ取り、敵を高岡まで追いつめた。
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稲垣小左衛門という者は、あちこち働き、芝が瀬の競り合いでも、一生懸命戦ったが、自分はなにも戦果を上げることが出来ず、結局は、恩賞にも与かることが出来なかった。個人的な記録に次のような話がある。
その後、国替えの後だいぶ経ってから、新宮領主の水野重良が、北山一揆の時の榎本の働きについて、お尋ねになられたので、詳しく申し上げた。一方、稲垣は、自分も競り合いのときは戦ったにもかかわらず、恩賞にも与かれなかったのを不満に思っていて、自分が少しばかり働いたように飾り、榎本の働きは左程でも無かったように、人にも話し、榎本をけなした。それで、事は少々紛らわしい事になって来た。
重良公は、水野平右衛門、水野喜兵衛、神谷九左衛門の三人に命じ、三名連署にて、安芸の国にいる戸田六左衛門に問合せをさせた。其の返事によると、榎本が一番に川を越え、一揆の者共を追い払い、優れた働きをしたことを見届けたと詳しく書いてあった。そこで、榎本を召し出し、200石を与えた。榎本は、一揆を追い払ったその日に戸田から貰った証状と、長田正政所からの書状を持っていたが、この度の安芸からの神谷等への証状も持っているが良いと、下されたので、これらの証状は今も榎本太良左衛門の家に相伝している。
水野重良は、新宮の水野の二代目で、元和 9年 (1624) に城主になっているから、この話はそれよりも後の事である。
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参考文献 |
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・熊野市百科大事典 ・「戦国の村を行く」 ・ |
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その他関連情報 |
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