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熊野市百科大事典:歴史 『後南朝・北山・川上の「後南朝」と長禄の変』 <
くまのしひゃっかだいじてん:れきし 『ごなんちょう・きたやま・かわかみの「ごなんちょう」とちょうろくのへん』 > |
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熊野市百科大事典:歴史 『後南朝・北山・川上の「後南朝」と長禄の変』 <
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熊野市(旧熊野市、旧紀和町) > |
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文安元年 (1444)、南方の宮が紀州北山で旗をあげたとの記事が康富記に出ています。南方は吉野から更に奥の川上・北山 (奈良県吉野郡川上村、上北山村、下北山村付近) に拠点を移した事が分かります。この南方の宮が後の自天王につながっていると思われます。上野宮の系統と伝えられています。
この時、紀伊国守護畠山持国は兵を派遣しますが勝てず、さらに細川の援助を得て攻撃、南方は敗れて湯浅 (今の和歌山県有田郡湯浅町) に逃れます。
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文安 3年 9月には、持国は湯浅を攻めますが落とせず、翌文安 4年 (1447) 12月、再度攻撃しついに湯浅城を落としました ( 康富記 文安 5年 1月19日・27日 )。康富記ではこの南方の宮について、園満院前門主、護聖院の系統と書かれていますので、説成親王の子の円悟又は園胤であり、園胤とみなされています。その首は翌年(文安5年)1月に京に届きました。( 康富記 文安 5年 (1448) 1月6日・10日・27日) 首は、宮の首として、公家方で実検され、獄門にはかけられませんでした。
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梵勝・梵仲の逐電 享徳4年 (1455) 2月28日、南朝玉川宮の末孫であり、相国寺慶雲院主であった梵勝とその弟梵仲が逐電(逃亡)し行方不明になりました。 ( 康富記 享徳 4年2月29日 )玉川宮の系統は先にも述べましたが京の公家社会に溶け込んでおり、逐電は彼らの立場が不安定になった事を示すのでしょうか。彼らのその後に付いては不明です。
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川上・北山の後南朝
川上は今の奈良県吉野郡川上村、奈良・京都方面からみて南山とも言われます。北山とは、熊野方面からみた北山で、川上からは伯母峰峠を南に越えた所です。今の奈良県吉野郡上北山村、下北山村、及び、口北山と言われた三重県の熊野市北部、和歌山県北山村の一帯です。
位置的には、南山が北山の北側です。つまり、南山は北の奈良方面から見て南、北山は、南の熊野方面から見て北、です。
川上・北山に逃れた後南朝についてその系譜をたどるのは、京の人々の史料はほとんど無いので、地元の伝承・史料に頼るしかありません。下記の系譜は川上村、上北山村の伝承によるものです。
後南朝系譜(その2)
小倉宮實仁親王 --- 天基親王 | |- 園満院宮(園胤 還俗して義有王) | - 空因親王(還俗して尊義王) -- 尊秀王(一の宮、自天王、北山宮) 忠義王(二の宮、河野宮) 尊雅王(三の宮、南天王)
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湯浅落城後、北山・川上の衆は、さらに、尊義王の子、尊秀王、忠義王を立てて闘います。後南朝の系譜と上記の地元伝承の系譜は上手くつながりませんが、ここにでてくる園満院宮が接続点になっています。先に述べたとおり文安元年に園胤が北山で挙兵しており最後は湯浅で敗死しました。この名前が接続点です。
伝承で實仁親王の事蹟と伝えられるのは小倉宮聖承にあたるのですが、聖承が京都で死んだ事は確実です。しかし伝承では實仁は嵯峨から川上村に移ってここで亡くなった事になっています。その子供が三人あり、天基と園満院が禁闕の変を起こし、天基は比叡山で討死し、園満院は逃れ、文安元年挙兵、湯浅で敗死した。空因は、萬寿寺に入ったが禁闕の変の時に還俗し尊義王となり、江州甲賀に落ち、そこで民家の女を妻として二人の皇子を生み、後に父子共に北山に来て三ノ公に隠れたとされます。三ノ公(さんのこ)については下記を参照して下さい。
その一の宮の尊秀王は、北山 (上北山村小橡 (ことち)、古くは、小瀬と橡本の二つの村であった )に在し、自天王とも北山宮とも言われます。後南朝最後の天皇です。二の宮の忠義王は川上 (川上村神之谷 (こうのたに) ) に在し、河野宮とも言われました。
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後南朝皇居跡 八幡平の後南朝皇居跡です。「後南朝史論集」から取りました。同書の編者である瀧川氏が八幡平を訪ねた時の写真です。この写真には鳥居が写っていますが 1999年に私が訪ねた時にはこの鳥居は壊れて倒れていました。この写真は、八幡平の奥の方、今、碑が立っている辺りから川の方に向かって撮ったものと思います。瀧川氏の紀行文の中に、上北山村小橡の瀧川寺住職林水月の「南朝遺蹟吉野名勝誌」から次の引用があります。
三之公は入之波奥に在り。川上郷の旧記に、南朝の皇子園満院を始め、空因王、尊秀王、忠義王、尚高王各皇族の御座せし遺蹟と云ふ。南朝遺史、南山義烈史、川上村誌等の載て顕揚する所なり。既往宮内省諸陵寮の属官某、山川を跋渉して此辺まで調査に来れり。奇特と謂つべし。鳴呼
瀧川氏はここを後南朝の皇居跡と判断しています。二の宮(忠義王、河野宮)が住んだ川上村神之谷の近くといえば近くですが、それにしても10KMは山奥です。昔の事だから良く踏まれた山道だったと思いますし歩く人も達者だったでしょうが、それでも4時間程度はかかる行程でしょう。
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後南朝の終焉 - 長禄の変
嘉吉の乱で赤松家は廃絶させられますが、その残党は、赤松の再興を目指します。彼らは、後南朝から勾玉(神璽)を取り戻すことによって、幕府の許しを得て赤松の再興を果たせると考え、幕府の許可を得て、北山に入ります。後南朝方から見れば、赤松の残党は極悪人ですが、赤松の残党も決死の覚悟で乗り込んだのです。この経緯は、二ノ宮の御所に討ち入った上月左近将監が記した上月記(こうつきき)と、赤松再興の記録である赤松記に詳しく書かれています。
彼らは、一年近く南朝方の油断をうかがい、長禄元年 (1457) 12月 2日、北山の一の宮 (尊秀王、自天王、北山宮) の御所と、川上の二の宮 (忠義王、河野宮) の御所に同時に討ち入りました。北山には、丹生屋兄弟が討ち入り、殿居の井口三郎左衛門尉を斬り殺し、一の宮の首を取り、神璽を奪いました。
川上には、間島彦太郎他合わせて 8人が討ち入り、二の宮の首をとりました。彼らは、両宮の首と神璽を奉じて逃げましたが、橘将監等が追跡し両宮の首と神璽を取り戻したと伝えられます。その後、神璽は両宮の母が保管していましたが、翌年小川弘光が奪い、幕府は越智などを通じて小川と交渉、長禄 2年 (1458) 神璽は京に戻りました。この功により赤松は幕府により再興されました。
河野宮の墓には塔が 2基ありますが、地元の伝承では、一の宮の首を赤松一党から取戻した後、二の宮と共に金剛寺に葬られたなっており、元々はその時、宮を守って殉難した家来たちの墓もふくめ5基あったのが、明治時代に調査した役人が適当につみ直したものであると言われ、「後南朝史論集」で川勝政太郎氏が考証しています。明治 45年、北山宮の墓が瀧川寺に指定された時に、金剛寺は河野宮の墓とされたので地元では未だに不満を持っています。
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参考文献 |
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・熊野市百科大事典 ・「後南朝史論集」 |
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その他関連情報 |
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なし |
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