|
|
当サイトはどなたでもご自由にリンクしていただいて結構です。よろしければ上のバナーをお使いください。 |
|
|
ホーム >>
東紀州百科事典 >>
民俗・文化・歴史 >>
熊野市百科大事典:歴史 『後南朝・南北朝合体後の南朝勢力』 <
くまのしひゃっかだいじてん:れきし 『ごなんちょう・なんぼくちょうがったいごのなんちょうせいりょく』 > |
|
熊野市百科大事典:歴史 『後南朝・南北朝合体後の南朝勢力』 <
くまのしひゃっかだいじてん:れきし 『ごなんちょう・なんぼくちょうがったいごのなんちょうせいりょく』 > |
<
熊野市(旧熊野市、旧紀和町) > |
|
南北朝合体は、明徳3年(1392)、南朝の年号では、元中9年です。その後、南朝方に対する扱いは悪く、南朝側は不満を持ちます。
|
|
応永15年(1408)、足利義満が没すると、上野宮を奉じて、川上三村(今の川上村)が挙兵しますが失敗。 (吉水院文書 応永15年12月27日) この時の上野宮は説成ですが、説成が関係したのかどうかは不明です。
この文書の、吉水院とは吉野金峯山吉水院で、今は吉水神社になっています。中千本の花見どころで、吉野山の象徴であろう蔵王堂から 3分、吉水神社の書院は重文で桧皮葺の室町時代書院造りの建物です。又、ここで川上三村と言っているのは、奈良県吉野郡川上村のことで、三村というのが何処かは良く判りませんが、廿河 (にじっこう) は今の川上村西河、竹原は川上村高原と推定されます。川上村にある吉水院の荘園はこの二村だけです。
応永16年(1409)、後村上の三宮(上記の系図では惟成親王)の子、成仁王が、それまでいた越前から帰って、地蔵院に入室しています。南朝系の有力な皇位継承権者が寺に入りました。勿論幕府の指示でしょう。
|
|
後亀山上皇 次に動いたのは後亀山上皇でした。応永17年(1410)、後亀山上皇は、吉野に移ります。その理由は経済的困窮と言われます。「看聞日記」応永23年9月16日は、上皇が京に戻ったときの記事ですが、上皇が吉野に移った理由として「この五六年のご困窮」という記載があります。しかし、それだけではない。義満没後、幕府側の後小松天皇の後に称光天皇を即位させる方向の動きがありました。義満の時代には、自ら結んだ南北合体条件である「両朝御流相代の御譲位」の為もあったのか、後小松天皇の皇太子をたてるのは見送られてきました。後亀山は一縷の望みを持っていたのではないかと推測できます。しかし、義満没後はその遠慮は無くなった訳です。
称光天皇の践祚(皇位の継承)は応永19年(1412)8月です。後亀山が吉野にいる間であります。即位は応永21年(1414)12月でした。後亀山は結局、応永23年(1416)(22年とも言う)には、京に戻ります。 (「看聞日記」応永23年9月16日) やはり幕府にとって後亀山が吉野にいるのは、世間もいろいろ取り沙汰するし、どうも具合が悪かったようです。領地の回復など条件をつけ、お願いして戻ってもらったという感じです。後亀山はその後大覚寺に住み、応永31年(1424)4月12日に死にました。 (「満済准后日記」応永31年4月12日) 死んだ日は雷があちこちに落ちた大荒れの日でした。
後亀山の子、恒敦宮については記録は殆どありませんが、建内記 嘉吉3年5月9日には、小倉宮聖承の父としてのっております。薩戒記目録に、応永29年(1422)7月15日に死んだと見えているそうです。この系統が小倉宮と呼ばれる系統です。 南朝系の動静としてはこの間、応永30年(1423)2月20日の看聞日記に、護聖院宮と前園満院宮のトラブルの記事があります。何の事だかよく解らないんですが園満院が護聖院を殺そうとして逆に殺されたものです。護聖院宮とは説成親王でしょうか。長慶天皇の子行悟は三井寺の園満院に入っていますから、この園満院宮は行悟でしょうか。
同じ年の8月、南方宮福御所の子供が足利義持の計らいで寺に入りました。 (「看聞日記」応永30年8月3日・16日) 幕府としては南朝系はなるべく寺に入れてしまう方針であったようです。比較的穏便な手法です。なお、史料には、福御所に、上野宮の注記があります。それで、上記の系図にも福御所に括弧して上野宮と書きました。これが事実なら福御所は即ち説成親王になるのですが?? 称光天皇は応永32年(1425)ころには既に体調が悪く、旧南朝方は幕府に皇位を望む旨の申し入れ (「看聞」応永32年7月29日) をしていますが勿論聞き入れられる筈もありません。
|
|
天皇呪詛密告事件 応永32年(1425)の8月20日には、天皇呪詛密告事件が起きました。これは、天皇の健康具合が悪いのは、大覚寺殿 (後亀山) に仕えていた刀自 (下級の女官) が、呪詛しているためであると密告があったものです。当然、大覚寺殿 (後亀山は既に死んでいますから誰だかは不明ですが、何らか南朝に関係がある人でしょう) が疑われ、海門和尚を通じて尋問が行われています。刀自等は追放、大覚寺殿は、呪詛を命じたことはないなどと答えて曖昧な決着です。 応永35年(1428)1月29日、護聖院宮がそれまで長老となっていた景愛寺を退院させられました。母の病気が理由ですが、護聖院宮は後亀山の弟にあたりますので、やはり南朝方排斥の一環でしょう。
|
|
小倉宮出奔 同じ年、改元して正長元年(1428)の7月6日、恒敦の長男であり小倉宮二代目 (後出家して聖承) が嵯峨を出奔して行方不明になりました。これは大きな事件だったらしく、満済准后日記には7月8日から連日のようにその記事があります。12日には、伊勢へ行き北畠満雅を頼ったらしいと判明、16日、19日にもニュースがあります。 (「満済」正長元年7月8日他) 小倉宮には担当奉行が付いていて、その奉行から報告がなされています。 同じ7月の20日、体の悪かった称光天皇が死に、7月28日には後花園天皇が践祚しました。この日、南朝系の佐山宮は、勧修寺の新門主として入室しています。 (「満済」正長元年7月28日) 法名は尊聖です。佐山宮は長慶天皇の子の一人で南朝側の皇位継承権のある人の一人ですから、これを寺に入れた、つまり南方の皇位継承権者をひとり減らしたと言うことです。
勧修寺は、9世紀末または10世紀始めに醍醐天皇により立てられた寺です。京都の山科にあります。庭園が拝観できます。
この頃、鎌倉と室町は対立関係に有り、幕府にとっては厳しい時期でした。伊勢国に関しては、土岐持頼が足利義宣から伊勢守護職を与えられました。 国司と守護は当然支配権をめぐって対立します。伊勢国司の北畠満雅は、鎌倉公方足利持氏と呼応して、小倉宮を担いで挙兵します。正長元年8月の頃と思われます。これには関氏 (関西本線亀山の近くに関という駅があります。この付近を根拠としていた。) が同調しました。しかし、鎌倉の足利持氏は、結局、室町との対決を回避、満雅は、12月21日、伊勢守護となった土岐持頼に敗死しました。 (「経覚私要鈔」長禄4年11月20日に33回忌の記事が有る)
しかし小倉宮もそのまま引き下がった訳ではなく、正長2年(1429)2月には、関から小倉宮、北畠への書状を持った者が幕府方に捕まったとの記事があります。 (「満済」正長2年2月23日) 北畠満雅敗死後、永享2年(1430)2月には、小倉宮が京に戻る事になり、その御料所をどうするかという相談が行われています。 (「満済」永享2年2月2日) 。引続き4月2日にも、伊勢国司の赦免の事も合わせて、相談が行われています。4月26日には、伊勢国司御免となり、満雅の後を継いだ顕雅が許され、将軍に対面しました。小倉宮も京に戻ったでありましょう。小倉宮の反抗もこれで終わり、戻った後、小倉宮はその子を、足利義教の養子として、当時狂心の病であった尊聖の後の勧修寺門跡にいれました。法名教尊、この時教尊は12歳でした。教尊の名前は時の将軍足利義教から一字をもらったものです (「満済」永享2年11月27日)。
京に戻るについて、幕府は、小倉宮の生活費として諸大名から毎月3千疋を渡すことと定めたが、実際にはなかなか渡されず、永享3年(1431)10月には幕府の管領が諸大名に対し、12月越年分として2万疋を渡すよう申し渡しています。さらに、 翌永享4年(1432)2月には諸大名が一向に支払わないために、餓死しそうだと小倉宮が満済に手紙で訴えています。
|
|
その外の南朝系の人々 小倉宮は、このように幕府に抵抗しましたが、長慶天皇の皇子である玉川宮は立場が違っています。同じ永享の初め、永享3年12月には、玉川宮の娘が将軍のお側に仕えるために参じています。この娘は、後の永享9年11月密通事件を起こし流罪になっています。その他にも玉川宮が京の公家社会に溶け込んでいた事を示す記事が散見されています。
又、海門和尚も同じ長慶天皇の皇子であり、当時の禅門で重きをなしました。先の天皇呪詛事件の時にも見られるように、南朝系が問題を起こした時には幕府との間に立って処理に力を尽くしたようです。 永享5年(1433)4月、護聖院宮が亡くなりました。 (「満済」永享5年4月3日) 護聖院宮は、説成親王であるとすれば、御村上天皇の子で、長慶天皇、後亀山天皇の兄弟に当たります。
6月、幕府は、護聖院宮の5歳になる子供を臣籍に降ろそうと考え、阿野侍従の意見を聞いています。この子供は翌年寺に入り喝食となりました。そうすると先に亡くなった護聖院宮は、説成親王の子で護聖院二代目の世明のことでしょうか、一寸分かり難い。阿野侍従は、7月4日、小倉宮と異なり護聖院宮は幕府に忠実であったからその必要はないと答申しています。 (「満済」永享5年6月26日)、 (「満済」永享5年7月4日)。南朝系に対する幕府の姿勢が少しづつ変わってきている様です。つまり、これまでは出家させる方針であったのが、臣籍に降ろすことを考えています。
永享6年(1434)2月、遂に小倉宮が出家しました。戒師は、海門和尚です。 (「満済」永享6年2月25日)。 永享6年(1434)8月、前年に亡くなった護聖院宮の子供二人は寺に入り喝食となりました。この事を伝える「看聞日記」8月20日の記事は、護聖院の跡継ぎは置かないこと、又、今後、南朝系の家系は断絶させるという方針を記しています。臣籍の降ろす事の検討から、跡継ぎは置かないという決定まで、幕府の対南朝方への政策は明らかに変化しました。9月18日には護聖院旧領地の処分も行われました。
小倉宮に関しては、永享7年(1435)3月、小倉宮聖承を嵯峨から勧修寺へ移す事が検討されました。 8月25日には、小倉宮が、後朱雀院、後三條院両代之宸筆御記二合を将軍に渡しています。 永享9年(1437)7月、大覚寺門主となっていた将軍義教の弟 (義昭) が叛逆を企てて京都から姿をくらましました。この時、南朝系に仕えていた者が一緒に姿をくらましています。何かあると南朝系の人々が、利用し、利用される形で見え隠れします。
嘉吉元年(1441)6月24日、赤松満祐が将軍足利義教を討ちとります。嘉吉の乱です。赤松は足利義尊を立てて闘いますが、10月には敗死、赤松は断絶となります。この時、赤松は、小倉宮の末子を連れていったとの伝聞情報が「建内記」永享9年(1437)7月17日にあります。やはり南朝は、大義名分に使えるのです。この事件が後に、赤松の残党が後南朝の二人の王を討つ「長禄の変」の原因と成りました。嘉吉の乱の前日6月23日、小倉宮聖承の子で勧修寺に入っていた教尊は、将軍のために祈祷を行っています。
|
|
小倉宮聖承の死 その後暫くは南朝方に関する記事はありませんが、嘉吉3年(1443)3月になって、小倉宮が叛逆を企てているとの噂が立ちます。しかし、小倉宮は既に重病であり、これらの噂は嘘でありました。聖承は、嘉吉3年(1443)5月7日京で死にました。
同じ頃、海門和尚も死にました。この事は、建内記 嘉吉3年5月9日に詳しく書かれています。特に和尚の人となりについては、「眞俗兼備、法徳無比、可惜ゝゝ、廣才博覧、一見一聞事更無忘失、天性利根、名望無双、匪直也人」と言葉を連ねて誉めています。建内記では、聖承と海門は同じ7日に死んだとなっています。(康富記では、10日) 先に、幕府に融和していたとのべた玉川宮は、この頃までに、因幡に移っています。理由不明。事情も不明。 (建内記 嘉吉3年5月9日)
|
|
参考文献 |
|
・熊野市百科大事典 ・「看聞日記」 |
|
その他関連情報 |
|
なし |
|